平和の開拓
平和という町の名前
盤渓から流れてくる左股川と手稲山から流れてくる発寒川のぶつかるところが西野でした。川が2つにえだわかれをしていたので左へまがる道を左股といい、右に曲まがる道を右股と呼んだのです。私たちの住む町平和は札幌郡手稲村大字上手稲村の西野右股とよばれていましたが、昭和17年(1942年)札幌郡手稲村字平和と呼ぶことに決めした。
この「平和」というよび名は、そこに住む人々が健康で仲なかよく助け合っていく平和なふるさとであってほしいと、この土地をひらいてきた人々のだれもが持っていたねがいいのあらわれで、その名まえを引きついできました。
国道5号線の西野への入り口「パチンコ甲子園」のあたりの標高は36メートル、右股橋は103メートル、平和1条6丁目交差点は129メートルで、国道と右股橋の標高差は67メートルです。札幌市役所を17階まで上った事になります。
「五天山」は標高303.5メートルありテレビ塔の2倍です。
平和の開拓
平和は川に沿って長いとちで、平和1・平和2・平和3のぶらくからなっていました。 明治17年(1886年)山口県人3戸が、入植し、その2年後(明治19年)には福井県越前の人たち13戸が入りました。
平和の入植者
その前にも、しっかりとしたきろくはありませんが、五天山の入り口、西陵高校の近くに、「宇野八幡」をまつったほこらがありましたが、そのほこらの中に、明治17年ににゅうしょくした石井助太郎さんによる「明治2年よりはじまる」と書かれたものがありましたので、すでに何人かがこの地に足をふみ入れていたと思われます。
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昭和20年宇野八幡
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宇野八幡奉納記録
この明治2年(1869年)に、時の開拓判官島義勇について、江戸から福玉仙吉という人が発寒に入りましたが、福玉仙吉は、明治8年(1875年)札幌神社今の北海道神宮の境内に、中の川から桜の木を150本とってきて植えた人で、宇野八幡のほこらも、どうも福玉仙吉がまつったもののようです。このほこらは、山口県の宇野八幡宮をまつったもので、坂井兼太郎さんが守っていましたが、昭和59年(1984年)西野神社にいっしょにおまつりされました。
明治39年(1906年)ころに平和3地区に5~6戸がにゅうしょくしましたが、それより前に入植開墾していた人がいたといわれています。
古老の話:かいたくのころのくらし
稲作
平和の滝へ行く川ぞいの道をのぼっていくと、山間のしゃめんに、石垣がいくだんもきずかれているのを見ることができます。あれは水田を作っていたあとです。とりわけ平和第3のちいきは、標高170メートルから250メートルという高さなので、永峰沢から水をひいて、棚田をつくっていたのです。また、川ぞいの地点では、3.5メートルあまりもうめたてをして、造田したともいわれています。造田のひようも畑を作る3倍もかかったそうです。
いま、平和第2会館前にある石碑は、明治17年(1884年)から平和地区への入植がはじまり、明治29年(1896年)に、安井茂衛門・前原兼太郎たちの努力によって、右股用水路が完成したのを記念してたてられたものです。この用水路の水は、平和の滝の少し上にある砂防ダムのところからとられています。
こうして、苦労のかいがあって、昭和の初めごろには、66ヘクタールの水田が生まれました。
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昭和36年の平和
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昭和60年平和
このようにして、明治35年ごろには、良質の米がとれ村の景気はたいしたもので、笛太鼓でのせんででした。
この地区は西野米で有名な米どころでした。約160軒が作っていたようで、それらの農家のうち水車を使ってい無かったのはごくわずかで155台の水車が使われていました。
現在はその稲作を為る農家も平和の木下さん1軒となりましたが、毎年の新嘗祭(勤労感謝の日)にはその田圃で作られた稲穂と白米を奉納いただき、御神前にお供えしています。
(手稲東小学校の郷土資料室には“西野地区水車分布立体地図”と“水車の模型”が展示されています。)
“西野米”と人々に知られる程の良質米を作るまでには当時の先人たちの苦労は想像以上のもので、山林を切り開き、田畑を作り、自分たちの住居を造ると同時に安住のための心の支えとして、神社をつくりしょうがつ参りや秋の収穫のかんしゃ祭もにぎやかに行いました。
神社のお祭りには木の枠に絵や詩を書いた紙を貼りカンテラの灯りを灯した青年達手作りの神灯を地域の主要道路に約90メートルに一個ずつ立ててお祭ムードを盛り上げました。
現在の平和
水害
水の豊富な発寒川は、米作りには大事なものでしたが、雨が降らないときは、きれいな冷水でヤマベが川一杯に泳いで、秋には鮭がいました。
しかしこれも、平和霊園の奥で金の採掘を始めてからめっきり少なくなってしまいました。
平和地区がさいごまで、苦しんだのが、発寒川のはんらんでした。長雨がつづいたり、大雨になると、一度にあふれだし、田畑をあらしました。
そのころ発寒川は、自然の川で、川岸はなだらかな石原がずっとつづいていました。川底も自然のままでした。今は水の流れを調節するために、だんだんにしていますが、そのころは、一気に水がはしりだし、川岸や田畑や道路をけずったり、橋をながしたのです。
昭和25年11月の水害は、大変なものでした。阿部沢橋が流され、ついで、十間橋がねこそぎ流され、錦水橋もおし流しました。おし流された橋脚(橋の足に当たる部分)が下流の橋につきあたり、橋をはかいし、流れをせきとめたものですから、水の勢いはますますはげしくなり、中州橋・右股橋・左股橋など7かしょが押し流されました。平和地区は孤立しましが、馬と人で橋材の木材を運び出し部落の人たちで橋の架け替えを行いました。
その後、昭和34年(1959年)から一年おきに3回れんぞくして、水害にみまわれました。住民達は何度も道庁に陳情にでかけ、昭和38年(1963年)から護岸工事にかかり11年間かけて工事はかんりょうしました。
昭和38年右股橋付近
昭和51年今の発寒川ができあがり、水の心配がなくなりました。世の中が進むということは、私たちの生活からふあんを取りのぞくということでもありました。
現在の右股橋
古老の話:古老に聞いた発寒川
この平和地区に北海道電力が送電を開始したのは昭和22年、福井地区は少し早く昭和17年で田畑の中にあった電柱11本を道路に移し街路灯が町内に初めて設置されました。ごくまれに、風車、水車による自家発電は有りましたが多くの家庭はランプ生活で、現在の街路は夢でありました。
急速な道路交通の拡充、宅地造成の拡大等によりそれまで飲料水としては山間い谷川の水または井戸水であり、トイレは全部くみ取り式であったのに昭和49年4月に下水道が、整備されたのを皮切りに昭和61年5月に平和地区全域が完成し、浄水管は昭和60年に全域に完成しました。
古老の話:馬頭観世音菩薩
古老の話:八幡様と義父
古老の話:私の育った平和
古老の話:平和40年の思い出をたどる