稲作
造田
あれ地を水田にするには、まず、大木を切りたおし、やぶ原をやき、石をとりのぞかなければなりません。つるはしやくわで土をほりおこし肥料分のある表面のつちを、かたほうによせておき、中のじゃりをとりのぞきました。とりのぞいたじゃりは、もっこで低いところにはこび、うめました。よせておいた肥料分のある土を、元のようにかぶせ、さいごに15~20センチのあぜをつくり、水をはります。
水田1まい10アールをつくるのに、1日20人ほどの人手で4~6日かかりました。畑地ならば、20アールはつくれる仕事量でした。
こうして米が食べたいという人々のねがいは、豊かな水の流れる用水路と、美味しい米のできる水田をひろげていきましたが、1つぶの米を口にするまでに、まだ、たくさんの農民のくろうがありました。
北海道の米作りには、年間の気温がひくく、夏の短いことをとくに考えなければなりません。
もっこかつぎ | 直まき | たこあし |
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初めのころ、稲の苗は、
たねもみも初めは、「
昭和の初めになって、
田植えは、5月末ころからはじまりましたが、これは近所の人たちがきょうりょくしてやります。自分のところの田植えをてつだってもらったら、その
田植えは、はじめは4うねづつ、田植えのうまい人が苗を植え、それをまねして、みんなで植えていったり、ひもをはって、それにそって植えたりしていましたが、しだいに、ごろという道具で、田んぼに、しるしをつけて植えるようになりました。
田植えの日は家々がそう出で、手伝うので、にぎやかなものでした。終わった家では、夕方、、赤飯やにしめを出して、祝いあいました。
苗が30センチほどのびたころ、田んぼでは、どろ虫とりがおこなわれました。稲の葉を食べるどろ虫を、ふねという道具で稲をいためないようにすくい取るのです。なれないと、せっかくのびた、苗がおれたり、たおれたりしてだめにしてしまうことがあるので、力のいれかた、まわし方など、気をつかうしごとです。まだ夜の明けない露のあるうち、月あかりをたよりにやりました。せっかくふねいっぱいにどろ虫をあつめたのに、ふねを一ふりした時、反対側にこぼしてしまい、次の日に、田んぼに行ってみると、稲の葉が、どろむしにごっそり食べられていたということもあったそうです。
草取りは家々で自由にやっていましたが、みんな手で水田を、すみずみまでなでまわすのですから、気のとおくなる仕事です。それも1度だけでなく、1番草・2番草・3番草といって秋までに3回もやらなくてはなりません。3番草にもなると、稲ものびて、かがんで草取りをすると、稲の葉のさきが顔をさし、目をいためることもありました。
稲刈りや稲運びなどは、手伝い合うことも多かったようです。
かりとったった稲は、はさがけといって、丸太に横木をわたし、それに11~12だんのいねのたばをかけ、自然にかんそうさせました。
稲こきは、
もみすりは、土うすを4~5にんがかりでまわしました。西野では
西野米
西野・右股・左股は砂まじりの粘土質で新しい田から年月がたち、土地がなれてくると、水もちがよくなり、つやのよい、良質の白い米ができました。
そこで西野・福井の米作りがさかんになるにつれて、ここでとれる米は「西野米」として有名になっていきました。それは、道内でもっともおいしい米とされていました。なかでも西野左股米は、
農作物のできだかは、天候に大きく左右されるものですが、大正2年(1913年)の冷害は、ひどいものでした。そのころ、だいたい10アールあたり240キログラムの米がとれたのですが、この年は、2戸の農家が、たねもみを取ることができたていどで、他は、全めつじょうたいとなりました。また、左股橋がながされるほどの大水害にあうこともありました。
米を作る農民は、天候にくわえて、米の
こうして、水田農家にとって「母なる川」であった
今ではただ1軒となった田んぼと畑(平和) |
水車
大正5・6年ころになると、水車がつかわれはじめました。水車利用の稲こき機・土うすもでき、しごとはぐっとらくになりました。西野一帯では、ひところ百台もの水車が回っていたということです。