人々の生活
家
さいしょは簡単にできるおがみ小屋で、仕事のあいまあいまに掘建小屋につくりかえていきました。掘建小屋とは地面にあなをほって、柱をたてササやカヤ・木の皮などで屋根や壁をおおい、入り口にムシロをぶらさげたものでした。小屋のなかは、下にササをしいて、その上にムシロをかさねたものでした。あるくとブヨブヨしていました。屋根は柾をわってふき、風でとばないように石をのせました。かべは麦藁を二重にかこっただけのものなので、冬のきびしさは、たとえようのないものでした。
部屋は一つ。まん中にいろりがあり、すいじとだんぼうにつかいました。寒い日は、いろりにまきをどんどん入れてもやしました。真夜中でも火をたやさないようにするために、大きな木の根などを入れてもやしました。えんとつなどありませんし、木はかわいていませんから、けむりが部屋中にこのりけむたくてひどいめにあいました。ですから、この当時、みんな目をいため、トラホームにかかったり、まつげがなくなったりして、目をしょぼしょぼさせていたそうです。
小屋がけがすむと、やすまもなく木を切って炭をつくり、駄馬(背中にちょくせつ物をのせて運ぶ馬のことで、馬車を使うようになるまでは、物をはこぶ重要な役目をしていました)で町へはこんで行き、それを売ってお金にしました。そしてそのわずかなお金で生活にどうしても必要な塩やしょうゆ・日用品などを買ったのです。
木を切ったあとはたがやし畑にしていきます。畑には、すぐに食べられる作物のいも、そば、大根、小麦などのたねをまきました。このように、食べるものも自分たちの手でつくりました。
入植当時の家づくり
動物
北海道には、しか、くま、おおかみなどがたくさんいて、人々は自分たちの身を守ったり、自分たちの土地を広げたりしていくためには、これらの動物と戦わなくてはならないこともくさんありました。
そのころ、札幌付近の平原は、しかたちの気に入った遊び場だったそうです。数十頭、数百頭の大群でやってきて、やっとたがやしたばかりのせまいとちに育てたさ作物を食べてしまうのですから、ひがいはひどいものでした。ですから、しかのむれがうろつくころになると、ひとばん中、板やなべを打ちならしたり空砲をはなったりして追いはらい、さらに、畑に板で囲いをして作物を守ったそうです。
古老の話:くまうちの話
これほどたくさんいたしかも、食肉用にたくさん打ちとったため、明治20年ごろには、ほとんど札幌付近からそのすがたを消してしまいました。
おおかみは、初め、しかを食料としていました。ですから、アイヌの人々はおおかみのことをユックコイキ(しかをかるもの)とよんでいました。クマのように人をおそうということはなかったのです。ところが、しかがいなくなってえさがなくなったおおかみは馬をおそうようになりました。とくに子馬をねらって食べたそうです。当時、馬は人や物をはこんだり、畑をたがやしたりするとても大切な動物でした。そこで明治11年に、おおかみ7円、クマ5円の賞金をつけて打ちとらせることをすすめこれからの被害をなくそうとしました。このため、おおかみはだんだんと少なくなり、今では全くいなくなってしまいました。
また、カラスにもひどいめにあわされました。こんな話があります。
うっかり玄関やまどをあけておこうものなら、さあ、たいへん。かまのふたをあけてごはんを食べるやら、なべのふたをあけておつゆをのむやら。はては、寝ている赤ちゃんを突っつくという悪さをしました。
そこで、とうとう役所でも1羽4銭で買い上げました。あまごにも賞金をかけたそうです。さらに、ぶよ・やぶかにもひどいめにあわされました。
顔・くび・手足など、はだの出ているところにすいつくようにびっしりむらがりました。がまんをして仕事をつづけていると、まぶたがはれて、ものが見えなくなり、口や鼻にも入り込んでこきゅうすらこんなんになり、めまいがしてたおれそうになりました。
食事
飲み水は川の水でした。主食は、いも・そば・ひえ・かぼちゃ・くりなどで、おかずは、そのあたりに生えているふきやわらび、みつばなどです。それに川にいる魚などをとってたべていました。
衣服
衣服は、初めのころ、北海道にわたってきたときに持ってきた物を着ていたので、寒さや、あれ地の開こんに合った、いふくではありませんでした。ですが、すぐに衣服を買うお金もありませんし、物も少なかったので、衣服につぎはぎをして大切に使っていました。
でかける時は、男は「わらじ」女は「わらぞうり」げてをはいてでかけました。冬は「つまご」か「わらぞうり」をはきました。珍しいのは、石狩からくる人たちは、冬にサケの皮でつくった「ケリ」というはきものを、はいていました。この「ケリ」は、ワラや牧草をつめてはくもので、あたたかかったようです。
寒さのきびしいきせつになると、男は毛糸であんだ、「たこぼうず」というのをすっぽりかぶり、女は「おこそずきん」に「もんぺ」「かくまき」といったかっこうです。
荷物の運搬
にもつを運ぶのには「荷負い」というものをつかって、たきぎでも、たわらでも、なんでもちょっとしたにもつは、これではこびました。車はさいしょのものは、大木を丸太切りにしたもので作った、原始的な手車や馬車をつかいました。大八車やリヤカーは後のじだいのものです。
馬車は、さいしょは、はば4.5センチの金わのかかった車りんでしたが、重い荷物をつんで、道のわるところに行くとたちまち、車りんまでめりこんでしまいました。そこでさらに、車りんのはばを9センチにかいりょうし、そのごは自動車の車りんをりようしました。しかし、馬の数がすくなって、3輪トラックや4輪トラックンにかわっていきました。
昔のひとは、とおい道でもよく歩いたもので、開拓に入った人たちが、銭函の海岸を石狩まであるいたという話や、札幌まで歩くことも、たいへんだと感じていなかったということを思うと、昔の人の足のじょうぶさには、感心させられます。
自転車は大正時代で、少数の人たちしかのっていませんでした。
古老の話:同級生「西蔵」の話
生活
入植のころは、福井・平和・西野・昭和・中立など各部落どうしの行き来は、ほとんど行われなかったようで、森の中に立ちあがるけむりによって、人が住んでいることを知ったというはなしもあるそうです。
しかし炭やきがだんだんとさかんになり、その中心である福井・平和地区には、2~3件の飲み屋・雑貨屋ができ、そこで他の部落の人とつきあいができるようになりました。さらに、平和に分教場や神社ができて、ばらばらでつながりのなかった部落間に、ひとつの大きな結びつきができはじめてきました。
山かせぎ
秋のとりいれがすむと、村中の男の人は、山に入って、共同で造材のしごとをしました。西野や福井の人々が、造材のしごとをしていたのは、明治の終わりころから、昭和の35~6年くらいまででした。明治の終わりごろは、ばんけいのほうまで、大正・昭和のころは福井のおくの山や、平和のおくの山で造材をしていました。そのころの造材は、冬山造材がほとんどでした。それは、人と馬の力で木を切りだすには、雪の上をそりを使って運ぶのがいちばんよかったからです。
造材のしごとでは、たくさんの人がはたらいていました。そのしごとは、山子・やぶ出し・たま引き・下引きなどにわかれていました。
「山子」は、テッサというおのとのこで木を切りたおすのですが、雪の深い旧しゃめんで木を切りたおすのは、大変なしごとでした。
切りたおすときは、おので切りたおすほうのみきに受け口という切りこみをいれておき、そのはんたいがわのすこし上をのこで切るのです。このおのと、のこによる方法は、思う方向に切りたおせるのですが、ときには思わぬ方向にたおれて、山子が大けがをしたり、死んだりすることがありました。また、受け口をふかくほらないと、木がたおれるとき、木がとんできたりしてたいへんきけんでした。切りたおした木は、山子が刃広というおので四角くけずって、はこびやすくしました。(後に丸太のままだすようになった)
「やぶ出し」というのは、山子が切った木を、やぶ出し人夫が土場(木をあつめるところまではこぶことです。)そのときは、とび・がんたという道具がつかわれました。この道具をつかって人の力で土場まで木をひきずりおろすのです。深い雪の中を、人の力で木をひっぱりおろすのは大変つらいしごとでした。
「たま引き」は、やぶ出し人夫が土場にあつめた木を大きな道のあるところまで、山の一本道をたまぞりと馬をつかって、はこび出すことです。たまぞりの上に丸太を一本のせ、それを何台もつらねて馬にひかせ、大きな道のある土場まで引いていきます。
最後は「下引き」です。この時の道具はバチバチと馬です。バチバチに、丸太をたくさんのせ、町の木工場まではこびます。造材が始まったころは、バチバチがなく馬の背中に木をつんだり、馬そりにのせたりしてはこんでいました。しかし、馬そりは、幅が狭くてたくさんの木を運ぶことができず、不便でしたし、倒れやすかったのでたいへんきけんでもありました。
このような仕事を共同でやっていたのですが、人々は毎日家から山まで、通っていたわけではありません。山の中に小屋をたて、冬の間じゅう山で生活していたのです。その小屋は、おがみ小屋というそまつなものでした。小屋をたてるために、みんなでむぎわらや、えんばくわらをせおって山に入り、そのわらで屋根をふきました。入り口はむしろをたらしただけでした。
中は広くまんなかに大きなストーブがあり、そのまわりには、松葉やわらをしきつめ、その上にふとんをしき、ねとまりしていました。その中での生活は、たいへんでした。食べ物の米やみそは、米そ上げといって、一冬分みんなで小屋にはこびました。それをごはんたきのおばさんが、大きななべでたいてくれました。また造材は朝早くから、夜おそくまではたらくので、毎朝大きなべんとうを作ってもらって、でかけました。
山での生活は、大きな木があいてですから、きけんがいっぱいありました。木がたおれるときや、木をはこぶときに、木やそりの下じきんなって、命を落とす人もありました。しかし、苦しいことばかりではありませんでした。毎年2月26日は、山祭りといってしごとをやすみ、ごちそうを作り、山の神さまに安全にしごとができるようにかんしゃしました。山祭りは、ほんとうは2月8日なのですが、福井地区では大正6年2月26日に宮下仁吉さんが山で木の下じきになってなくなられたので、この日を山祭りとして神さまをまつることになったのです。
また、下引きの人たちは丸太を町の工場に運んだかえりに、手稲東町の佐藤商店(今の浜坂皮膚科のあたり)や二股の大内商店で、お酒をのむのがなによりのたのしみでした。そのお酒はコップいっぱいずつ売ってくれたので、「もっきり」といいました。お酒をのみすぎて、つないでおいた馬のほうが、さきにかえってしまうこともありました。
このように、明治の終わりごろからつづいた冬山造材も昭和35~36年ごろまでに、木がすっかり切りつくされ、西野、福井での造材はおわりをつげました。
子供の生活と楽しみ
夏は近くの川で泳いだり、魚をとったりして遊びました。また、せみやくわがた虫をとったりしました。
冬は池の水がこおるので、氷遊びをしました。「べった」といって、げたのうらに金を打ったスケートを作りすべって遊びました。スキーも自分たちで作りました。丸太をうすく切りけずって、先をしのらせるのに苦労したそうです。
そのほか、あやとり・竹わり・竹馬・こま回し、おけのたがをつかっての輪回し、竹とんぼなど、身近な材料で工夫して作って、友達と楽しくあそびました。
しかしこのころの子供たちには、家のてつだいがたくさんありました。3~4年生いじょうにもなると、ゆかふきに水くみ、ふろたきにランプのほやふき、そして女の子は、母親のかわりに、ごはんたきなどのすい事をぜんぶまかされていました。また兄弟が多いので、赤んぼうをおぶり、子守をしながら遊びました。
お祭りやお正月には5~10銭のおこずかいをもらいました。それで1銭のあめ玉を買ったり、1銭で桜パン10個などをかって食べるのがたのしみでした。
古老の話:40数年の思い出
大人の楽しみ
お年よりは、「お講」といって、月に2回ほどおぼうさんをよんで仲間のおとしよりとお説教を聞くのが何よりの楽しみでした。
はたらいている人たちにとっては、「半夏生」が楽しみのひとつでした。7月2日ころを半夏生といいます。別名「どろおとし」ともいわれ、水田を作っている人たちのただ1日の休日なのです。この日までに植えたなえは、かならず米がとれるといわれ、この日まで植え残しがないように、いっしょうけんめい仕事をするのです。そして、この日の馬の草も前の日までにかってしまって、この日はまったく仕事をしないようにしました。そしてほうの葉にごはんをまいたものや、おはぎ、赤飯などを作って、家でいわったそうです。この日がすぎると、また秋のしゅうかくがおわるまで、休む日もなくはたらくのです。
おぼんには、ぼんおどりをしたり、浪花節を聞いたりしました。お祭りは活動写真を見たり、正月には、花札、ほう引きというゲームを楽しみました。
古老の話:開拓時代の神社とお寺
電気
電柱になる木を山から切り出し、裸線のまま家までひっぱったのでした。
電気が引かれての一番のよろこびは、不自由なランプの生活からかいほうされることでした。それと合わせて、ラジオを聞くことができるよろこびがありました。それは、世の中が一度に明るくなって、新しい文化が一度におしよせてくるようでした。今の時代でかんがえるとテレビが見られるいじようのよろこびでした。札幌のまちや琴似のまちのいえと同じように生活できると思うと、むねが、どきどきしたと当時の人はそのかんげきをかたっています。
野菜
米をつくることができるようになったといっても、水田の面積はせまく、とれ高も少なかったので、作った米を自分の家で食べることはできましたが、それを売って、たくさんのお金を手に入れるほどの量ではなかったのです。米作りの他に収入のみちをかんがえなければなりませんでした。そこで始めたのが、野菜作りです。春から秋まで稲を育てながら、札幌に近いという土地のじょうけんをいかしながら、野菜や果物、酪農をしたりする農家もできたのです。
初めは、ふきやきのこなどの山菜を採って売ることからはじめました。石油の空き缶やたるにつめ、それをせおって円山朝市(南1条西17丁目付近にあった)へもっていきました。まむしが一匹1円50銭くらいで売れ子供が取ってきたホタルやキリギリスの虫まで売れたそうです。
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野菜
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円山朝市
明治26年(1893年)ごろから朝市がはじまったといわれていますが、札幌に住む人が多くなるにつれ、野菜が売れるようになり、大正の終わりから昭和10年代が一番さかんだったといわれています。
西野では、大正の終わりから昭和の初めに野菜作りをはじめ、朝市に出すようになりました。4月のニラ、6月のイチゴ、7月の金時豆、8月9月の枝豆、とうきびなどが多くスイカなどもすこしありました。
なかでもイチゴが多く出され、西野のイチゴは有名になった時もありました。石まじりのあらい土がイチゴにあうため、おいしいイチゴがとれ、そのころの北海道では、珍しかったので、よく売れました。
イチゴがなる6月は、田のしごとがいそがしい時期だったので、雨の日は田の仕事、晴れた日は、一日中イチゴをとり、夜中にリヤカーや馬車につんで2時間いじょうかかって朝市にはこびました。このように、季節に合わせて、せまい土地から多くの収量
をあげられる作物をえらんで作ることによって、収入をふやし、暮らしを少しずつ豊かにしていきました。
昭和30年代に、根の中に入る害虫が大発生し、そのひがいのため、イチゴ作りをやめるようになりました。
この地域の野菜作りは、戦争中、少なくなりましたが、昭和20年(1945年)から昭和25年(1950年)にかけてもっともさかんになり、30年代までつづきました。
古老の話:野菜は福井が一番
古老の話:まっ暗闇にいちごをぶちまけて
リンゴ作り
「北海道の気候は、くだものづくりにてきしている。」といった、開拓使のまねきで来た、アメリカ人ケプロンのすすめもあって、くだものの中でも、北海道の気候や、土地にあったリンゴ作りが、明治8年頃から各地ではじめられました。
西野ではすこしおくれた30年代からリンゴを植えるようになりました。
一時は西野の山ろくに200~300町歩植えるけいかくがありましたが、リンゴは苗木を植えてから実がなるまでに10年もかかるし、よほど広い土地をもっていないと、作るのがむずかしかったからため、多くはつくられませんでした。
また、大正時代の中ごろ害虫の被害もあって、リンゴをつくっていた人の中にはやめてしまう人もいました。
その後明治の終わりごろから大正にかけて、リンゴの実にふくろをかけることを、考えたり、害虫や病中をふせぐ薬がつくられ、再びリンゴ作りをする人がでてきました。
西野地区でリンゴ作りがさかんになったのは、昭和になってからです。おいしい「西野リンゴ」として知られるようになったのもこのころです。
しかしその後フラン病という防ぎにくい病気がはやり、おおくの木がうしなわれたということです。
教育
明治5年(1872年)8月に、全国に学校を作ることになり札幌では創成小学校(資生間)、白石小学校(善俗堂)、そして手稲小学校(時習館)の3つの学校がスタートしました。、少しおくれて師の路小学校(篠路教育所)ができました。
時習館は手稲に和人が住みはじめたのは慶応2年(1866年)に中田義右衛門という人で、明治4年(1871年)には越後の人たち5戸が手稲西野の入り口のかいたくのため移住してきました。そのころの手稲は、まだ未開の地で、かいたくに入った人たちは木を切り背たけほどある草をかり、汗を流して田畑をつくりました。まだ学校もなかったので、子どもたちも毎日おとなたちの手伝いをして学校へはいけませんでした。
明治5年(1872年)1月に仙台藩白石支藩片倉家の家臣54戸241人が手稲村にいじゅうしてきました。そのひとたちの取締りとなった三木勉は、「開拓の第一歩は移住してきた人たちの子弟教育にある」と考え明治5年5月に学校を作り、自ら進んで教育にあたりました。
「学ンデ時ニコレヲ習フ」の古語をいんようして「時習館」とめいめいし、たてものは開こんちのようすそのままに、柏の木の皮をはいでやねをふき、桜の皮に「時習館」とかいてあったそうです。(今の中の川公園手稲東3南7の石碑の近くにたっていました。)
おしえたのは、読書、習字、筆算だけで、読み書きが中心でした。また、国の歴史では道徳の大切さをねっしんにおしえました。
算数の計算は今までソロバンでやっていましたが、三木勉は、当時もっとも進んだ筆算による計算方法をおしえていました。
他に三木勉は剣道の達人で、近くの山野で剣道をおしえ体力づくりも行なわれたのではないかと思います。
このように時習館の教育が心身、技能の向上に力をつくし、進んだ教え方をしたのでたちまちひょうばんになり、上手稲村に移住してきた片倉家の子どもたちだけでなく、ふきんの村の子どもたちも教育を受けにきたそうです。
時習館
そのころたまたま開拓使判官松本十郎が移住者のようすを見まわりにきた時、この時習館の文字を見て、子どもたちをはげまして帰りました。
このとき、1まいの絵を役所の人にえがかせ、自分でこれにはげましの詞を書きこんで時習館におくりました。
このことがあって三木勉は大いに感げきして、ますます、子どもたちや村人の教育に力をつくしました。
移住してきてからリーダー役だった三木勉は教育にいっしょうけんめいになるにつれて自分のしごとがおろそかになると思い、その役を伊藤信正というひとにゆずり、教育にますます力をいれたそうです。しかし残念ながら、その後、開拓使の戸せき係りにうつり、さらに札幌神社(現在の北海道神宮)の禰宜(神官)、千歳村や月寒村の村長をつとめ、さい後、きょう里の白石(宮城県)に帰ってなくなったと伝えられています。
古老の話:普通読本のこと
分教場
西野分教場は明治24年(1889年)、現在の西野神社から500メートルくらい上手の坂の上で、右股や左股の子どもたちはこの西野分教場へ通学しました。
この分教場はもと法華宗の説教所としてたてたものをかりたもので、床の間には、よろいをつけた、等身大の加藤清正公の像があんちしてありました。
この西野分教場の初代のせんせいは、前原兼太郎といい、背の低い人でしたが、いつも洋服を着ていてそのころの村では目立つ人でした。お話がじょうずで、村の発てんと村人の教ようを高めるために熱心に活やくしていました。(金子逸一氏談)
西野簡易教育所
明治28年(1895年) 公立上手稲尋常小学校と校名がかわり、学年は4年生までとなりました。明治31年(1895年)上手稲8番地(現在の農業協同組合上手稲支所のあたり)に校舎を新築、西野分教場は、はい止されました。しかし通学にはあまりにも遠く、道もけわしいということで、明治35年(1902年)西野簡易教育所(西野神社の場所)をつくりました。明治41年(1908年)になると現在と同じ6年制となりました。
よく明治42年(1909年)学校の位置を西野387番地(現在の手稲東小学校の場所)にうつし、校舎も新築して西野簡易教育書を合ぺいしました。
盤之沢特別教授所
明治の後半盤渓は、開拓が始まったばかりで、学校はありませんでした。村の人たちは子供の教育について大へん心配し、村のしょうらいのためにも学校は必要と考え、村長にお願いしました。村の人たちは、昼間の開拓の仕事でつかれているにもかかわらず、毎夜集まってそうだんし、村の代表が20数回も役所にお願いに行き、ようやく盤之沢教授所のゆるしをもらうことができました。
校舎をたてる費用は村の人たちが出し合い、材料は山の木のはらい下げを受け、村人全員の協力によって明治45年(1912年)5月、盤之沢特別教授所ができ上がりました。校舎はできましたが、学校で使うものは村の人の手でつくられ、ねんりょうなどは親がもちよらなければならなかったといわれています。それでも当時11人の子どもが教育をうけました。
手稲東小学校
明治時代 北海道に初めて汽車が開つうした年に、上手稲教育所にも初めてカッペル(まきストーブ)が使われました。まだいっぱんの家ではつかわれないめずらしいものでした。しかしこのカッペルがもとで明治30年(1897年)11月30日
学校が火事で全焼したことがありました。
カッペル
明治の先生たちは、明治維新まで武士だったのっで、悪いことをするとたいへんきびしく、一升瓶に水をつめ、イスにのせ、そのイスを目の高さまで長い時間もちあげさせられたそうです。
明治21年(1888年)の春ごろは手稲国道(現在の上手稲バス停前)のなかほどにありましたが、生徒も30人くらいで、教室も全学年で1つしかなく、その他に職員室、湯沸かし場、遊技場がいっしょにになったのがあっただけでした。
簡易小学校時代は4年でその上の温習科というのが2年ありましたが、その温習科に進む者は2~3人であとは、家事のてつだいをしていました。
この6学年が一つの教室、一つの黒板で一人の先生におそわるのですから、全体にめがとどきませんでした。でも生徒同士が助けあって、上級生が下級生を教えたり、下級生でも上級生の学習もいっしょにおぼえたり、忘れてしまったところを、下級生におしえながらおもいだしたり、便利なこともありました。体育や唱歌は全員で行い、遠足は銭函海岸や、近く野山にいきました。
学校は国道の方にあり、今の中立にあたるところは、柏林で夏は木の枝やササがおいしげって今にもクマが出そうなところでお互いに声をかけあいながら通学しました。明治19年(1886年)にはクマ18頭、オオカミ38頭がつかまり一人で歩くのはたいへんきけんでした。
冬は雪で道がふさがり、とくにふぶきの日は大きな子が先になって進みますが、スキーなどなかったそのころは、重いカンジキもはけず、わらぐつをはいて、ふきだまりのなかをはって進みました。
そのため明治28年(1895年)には西野神社の上の方に分教場がつくられ、遠くのこども達をおしえました。
当時の小学校は1年に1度3月に進級しけんがありました。その時には全部のふけいがたちあって、しけんがおこなわれました。成績の良いものは、飛び級をし、悪いものは進級できませんでした。教科書は漢字が多く、くろうしたそうです。
生徒のふくそうは、着物にモンペすがたで、洋服を着た人は先生か役場の吏員くらいでしたから、道で洋服を着た人にあったら、知らない人でも礼をしたそうです。カバンをもった子は2~3人で、本をふろしきにつつんでせなかにかつぎ、ゲタばきで通学しました。雨がふるとげたをりょうてにもって走ってかえりました。
冬のはき物は、ツマゴといって、ワラであんだはきもので、ぬれたツマゴを勉強中にストーブのまわりでかわかしたそうです。ゴムぐつは大正10年ごろからはくようになりました。
バスの開通
昭和24年(1949年)に丸井デパート前から西野二股まで1日6往復(12便)のバスが通っていました。年々本数が増便され、昭和36年(1961年)には、42便になりました。昭和37年(1962年)には、右股橋の所までバスが通ようになりました。昭和39年(1964年)には手稲東から福井えんてい(現在の福井分岐点)まで開通。昭和43年(1968年)にはえんてい通りまで、昭和50年(1975年)には福井えんていまで路線がえん長されました。昭和51年(1976年)には地下鉄東西線が開通したことによってそれまでバスターミナルや西野ターミナルから出ていたバスが地下鉄琴似駅から出るようになりました。
上水道・下水道
以前はどこの家庭でも地下水をポンプでくみ上げて使っていましたが、地下水は水のよごれが心配なので、昭和47年(1972年)から上水道が整備され、以来どの家庭でも水道がつかえるようになりました。
発寒川からくみ上げた水を西野浄水場へ送り、そこできれいな水にして配水管を通し、それぞれの家庭にはこんでいます。
また、昭和53年(1978年)から下水工事が行われました。家庭や工場で使われてよごれた水などを、発寒川にそのまま流したりしないで、発寒にある手稲ポンプ場に集め、そこから手稲山口にある手稲処理場へ送るようになりました。そこで水のごみやきたないよごれが取りのぞかれ、きれいな水にしてから、新川にながしています。
平福線開通
右股と左股の奥で、この道路をむすぶ線がありませんでしたが、昭和41年(1966年)自衛隊が演習をかねてこの間の道路をつくりました。8月3日からはじめた作業は9月16日1.3キロの道路を開通しました。わずか45日でした。費用も町と自衛隊と合わせて、168万円でした。
札幌鉱山
右股のおく、宮城の沢に札幌鉱山がありました。金銀銅をほり、含有量はすくなかったのですが、鉱量はほうふでした。年に7~8千トンの量を掘ることができましたが、どのくらい掘ったのか、くわしいしいことは分かりません。
明治のすえから大正時代にかけて一時は500にんもの人がはたらいていていましたから、右股はずいぶんにぎわったようです。
しかしその後、けいひがかかりすぎて、会社はなくなってしまいました。
地名のよびかた
呼び名は、移住の時のふるさとの名前をそのままもちいた「福井」「山口」そして村の位置から「東」土地がらをあらわすものに「西野」「宮の沢」があり農民のりそうや、がんぼうを表していると思われるものに、「平和」「富丘」「稲穂」「星置」などがあります。またかいはつの先導者のなまえをとった「前田」、物そのもののなまえをとった「金山」などそれぞれいみ、ないようをもっていました。
また社会生活の基本精神をうったえていると思われるものに、「中立」があげられます。
国民学校
戦時中の教練
明治時代に小学校の年限は6年間になり、学校に通う子供の数も多くなってきました。
学校には、天皇へい下、皇后へい下の写真や教育勅語が配られ忠君愛国の精神教育に励むことになり修身が重要な課目になりました。昭和6年(1931)の満州事変から昭和12年(1937)の日華事変以後は、急に戦争のえいきょうを受け、国のためにという考えをもとにした教育が行われるようになりました。
昭和16年(1941)から、小学校は国民学校となりました。体育の時間は、鍛錬と呼ばれ、なぎなた、剣道、柔道がおこなわれならび方や行進の練習をしました。戦争の勝利をねがって神社におまいりしたり、みんなで戦地の兵隊さんに手紙を書き、慰問袋を送ったりしました。手稲地区の農村でも、戦争がはげしくなるにつれて男は、兵士として出征していき、一家の大事な働き手がどんどん不足していきました。そのため田植えや秋の刈入れの時期には農繁休業といって学校を休みにして農作業をしたりするのも大切な学校行事でした。