札幌市とがっぺいする前の手稲町は、明治15年(1882年)、上手稲、下手稲、山口の3つの村からなり、このうち上手稲村(いまの平和福井、西野、手稲東、宮の沢)には開拓使設置いぜんにも東北、ほくりくから移ってくる人はいましたが、長くすみつく人は少なく明治4年(1871年)越後から森三吉ら五家族がベッカウス(西野の入り口)に入植したのが西野いったいの開拓の始まりとされている。また、また明治5年に旧仙台藩白石藩の武士が上手稲にうつってきました。これらがのちの手稲村の大きなきばんとなったのです。
これらの人びとには、明治せいふからほじょがあり、上手稲のばあいは家作料、開こん料、農具だいのほか食料は15歳以上7合5勺、15歳以下7歳まで5合、7歳以下は3合しきゅうされていました。それでも開こんはなかなかこんなんをきわめました。
明治35年(1902年)上手稲、下手稲村、山口の3つの村をあせて手稲村とよび、明治43年(1913年)にたてられ上手稲村碑の碑文によると、この年の上手稲村のじゅうみんの人口は、250戸1500人の大きなしゅうらくになっていたことがわかります。
「西野」のちめいが生れたのは、明治19年(1886年)で、中の川、広島、右股、左股、をあわせたち地名です。
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西野第2入植者
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西野二股付近
明治の中ごろ、西野いったいには、北陸や広島県などから移住してくるひとがおおく、畑として開こんをすすめながら、冬は炭やきをする人もおおく、やいた炭は札幌に出してお金にかえましたが、1っぴょう7~80銭で、あまりしゅうにゅうのよい仕事ではありませんでした。炭の売あげは夏のあいだのせいかつひにあてていました。炭やきがまを持たないひとは焼子としてはたらいていました。
畑の開こんとともに発寒川あるいは中の川から水を引いて、造田のしごともすすめられました。明治27年(1894年)には中の川から、水を引くけんりを道庁からきょかされて本かくてきに造田にとりかかりました。
造田は水にめぐまれ広島開こんの、ちいきがすこし早く、つぎに平和、福井へとふきゅうしていきました。きこうがおんだんで、土地も米作りにてきしていたためで「西野米」としてゆうめいでした。
そのごは、札幌の大都市化にともない、だいじな野菜きょうきゅう地として名をあげ、これとともに花卉園芸もさかんになって、昭和20年代こうはんには、ますますはってんしました。
ふだんのせいかつは、食料は自分の畑でとれたもので、ほぼまかなえるとしても、白いお米のご飯など夢のようでした。ランプ、カンテラの暮らしで、日用品も近くにある1軒か2軒のざっかやから、買いました。
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稲刈り
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野菜作り
交通は、明治20年頃に西野道路ができ、この道路からそれぞれの小さいぶらくをむすぶ、えだ道をかいつうさせていきました。
また、もみすりなどのどうりょくげんとして、水車をまわす農家がおおく、西野ぜんたいでは、水車の数が150を越えたこともありました。これは地けいが、けいしゃ地で、かんがいようすいが自由につかえたためでしょう。このように平和、福井および西野の西部地区(広島開墾など)いがいで、いまの中立地区のことをつたえる、昔のきろくが少ないのは、中立の開拓がたいへんおくれていたためでしょう。
水車
いま中立とよばれている地区は地元の人たちが、ふだん、そのようによんできた名まえで、手稲町じだいからもせいしきな名まえではなありませんでした。おそらく手稲東と福井・平和の中間にあったことかここが西野のまん中というきもちから出たのだろうであろうといわれています。
明治のはじめから中ごろの中立地区は、琴似屯田の演習地として国の土地で、明治37年(1904年)屯田兵のせいどのはいしとともに、人々に払い下げられましたが、土地があまり良くなかったこともあって、入植する人が少なく、開拓のテンポがおくれていました。
地元の人たちのたしかなきおくによると、明治39年(1906年)に小別沢から転入してきた和田藤根吉さん(和田勝之氏の祖父)がさいしょであったといいます。その後明治の末期から大正初期に福井その他から少しでも札幌に近い中立に、新しい生活をもとめては入ってくるようになりました。
このころが中立のあけぼのといっていいでしょう。
そしてやがて中立は、西野と旧上手稲村の中心となっていきます。それは明治5年(1872年)7人の子どもをうけ入れて上手稲34番地にできた、いまの手稲東小学校のもとになる「時習館」が、なんども校名や、ばしょをかえながら、明治42年(1909年)8月、上手稲尋常小学校として、いまの手稲東小学校のばしょにうつってきたことによるのです。昭和22年(1947年)には、手稲中学校の分校が小学校とあわせてせっちされ、昭和36年(1961年)分離して中学校はいまのばしょに校しゃをたてますが、ともに旧上手稲ちくではただひとつ学校のあるちいきでした。なお手稲東小学校が今の場所にいてんする時には、そのころ平和にあった分教場を学校といっしょにすることで佐々木熊吉さんが、学校をたてるとちを三反歩きふしてくれたといいます。
昭和35年(1960年)には巴組鉄工所の工場建設(昭和57年解体)をはじめ昭和42年(1966年)には西野道路のはばをひろげ、すっかり町のようすはかわりました。そしてこの年、手稲町は札幌市とがっぺいして、これをさかいに、に中立は都市化へのみちをいっきにつきすすみ、今のまちなみとなっています。
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現在の中立西野道路
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現在の山の手通り