福井の開拓
福井のまち
福井は東に三角山、西に五天山(札幌新山)があり、発寒川の二つの川(盤渓沢と平和の滝から流れる川)にはさまれた盆地です。
福井地区の支流は福井用水路のたいせつな水源で水の便がよく農業にてきしていました。水田の水に利用するほかにふもと橋、発寒橋付近では戦時中は氷をつくる仕事もおこなわれていたほど、きれいな水でした。
気候は、冬の雪は多いのですが、雨風の害はひかくてき少なく稲作にてきしていました。
福井の開拓
明治19年(1886年)伊藤太治兵衛、佐々木善兵衛が最初にこの福井に入りました。 つづいて明治30年までの間に、13戸の人たちが入植しました。この人たちのほとんどは、福井県丹生郡というところからきています。福井県のひとたちが、ここを開いたといってもいいでしょう。ですからこの地名が、福井とよばれているのもわかりますね。この人たちは、先に北海道にわたった知人や親せきの人をたよってわたり、1~2年の間札幌や小樽の町・札幌の周りの開拓地ですごしてから、ここへはいってきたようです。
福井は炭焼き中心の開こんがおこなわれました。
自分の土地の木を切り、なくなったら、また、奥地へはいり、炭を焼きながら開こんしていくという方法で福井は開けていきました。
福井で炭やきがさかんになったのは、近くに原料となる木が多数く生えていたことと、札幌や小樽といった大きな町がすぐちかくにあり、暖房や煮炊きなどにつかわれていたからなのです。
また、明治34年よりしぜんの桑の葉をかつようして、すべての家で、蚕を飼っていました。あとになって、役所のしどうで、桑畑もつくられ、いちじは、人のいる場所もないくらい、蚕棚をつくって、この地区の大切なしごとになったこともありましたが、5~6年でおわりました。
明治30年ころには炭やきをしながら畑をつくり、すこしづつ開けてきました。
しかし、開こんしたとちからできる農作物の量は少なかったのです。そのころ、となりの西野や平和では、米作りが成功しさかんに作られるようになってきました。人々はなんとか収入をふやしたい、米が食べたいという願いから、福井地区でも米作りを始めるようになりました。入植後10年たって炭焼き中心の開こんから、稲作中心の時代へとかわっていったのです。
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琴似学田入植者
盤渓・小別沢の開拓
盤渓は、むかし盤の沢とよばれ、屯田兵のためのじゅんび地として国からかりていた土地でした。明治27年(1894年)日清戦争がはじまったので、ここの木で炭をやいて、屯田兵が、戦争へいくためのじゅんびのお金をつくることになったのです。この時炭をやいたのが、盤渓地区開拓のはじまりでした。この炭やきは、屯田兵の長峰忠四郎が中心となり、我萬嘉吉などの人夫をあつめ、はじめたものです。この屯田兵のための炭やきは明治32年(1899年)までつづきましたが、その後、炭やきのけんりは、焼子にゆずられ、一定のぜいきんをおさめれば、ここで炭やきができるようになりました。
炭焼き小屋
また、これと同時に木材の切り出し(造材)もはじまりました。造材は明治30年(1897年)国の森林の一部がはらいさげになり、この木を切りだすことからはじまりました。これは、3年間おこなわれ、冬に木を切り、春に木を発寒川に流して運んだそうです。この時の木材は、北海道師範学校(北海道教育大学)などを建てるためにつかわれました。
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開拓の様子
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造材作業
明治32年(1899年)には、池田隆によって、左股から盤渓の造材地まで2.5キロメートルの道がつくられ、造材をするにはたいへんべんりになりました。
流送
盤渓の木材は、えぞ松・とど松・桂・せん・しななどで毎年4000石(1122立方メートル)くらいとれ札幌や小樽の商人によって外国へゆ出されました。特に桂は質がよいので有名で、鉄道のまくらぎなどになりました。その後、木材のほうふな盤渓の山も、炭やき、造材、まきの切り出し、山火事などですっかりはげ山になってしまいした。そのため大正7年(1918年)から植林がはじまりました。一方、木を切り出したあとは、畑にし、あわ・いなきび・小麦などをつくりました。人々は農業だけでは生活できず、炭やき・造材・まきの切り出しなどの苦しい生活をしていました。
盤渓の山火事
明治30年(1897年)5月、盤渓地区に山火事がおきて、山林10町歩(10ヘクタール)ほどがやけました。我萬嘉吉が、そのやけあとに、あわをまいてみたところ、たいへんよくできました。これが盤渓地区でのさいしょの畑作でした。
明治43年(1910年)の春にも中ノ沢から山火事がおき、盤渓、小別沢いったいは、火の海となりました。人びとはにげばをうしない、土にあなをほって、子供をそこにかくし、上からぬれむしろをかぶせて身を守ったりしました。一ヶ月ほどもえつづけた山火事は農業のためには、かえって手助けとなり、この大きな山火事を喜ぶ者もあったということです。
稲作
明治19年(1886年)に入植が始まったころには、炭やきのしごとがほとんどでした。しかし平和で米作りがせいこうしたことに勇気づけられ五天山の沢水を利用してつくられました。初めは、全部で3ヘクタールくらいでしたが明治33年(1900年)には源八沢から水をひいて、本格的に米作りがはじめられました。この時つくられたのが、福井かんがい溝(旧用水)です。しかし、この水だけでは足りないので、左股川から水をとり入れる必要がありました。これが明治24年(1909年)に、盤渓1号橋のあたりから引いた新用水です。このあと水田は15ヘクタールになり大正5年(1916年)には30ヘクタールにひろがりました。
左股川は、その落差がどこでも同じだったので、水を引くのがかんたんにでき、水車を回すのにつごうがよかったので、23台の水車がありました。秋の短いこの地区では、短期間で精米をやりおえるひつようがあったので、、水田のある農家のほとんどが水車をもっていました。
ところで宝来橋をわたって奥に入った小別沢は、福井地区とは水田の広さにも、水の豊かさにも、たいへんちがいがありました。小別沢では、大正のはじめ、久守甚蔵が、かたい岩ばんをくずして、用水路を作りました。久守家専用水路です。他の家では、用水路がととのっていなかったので、沢の水を利用して米作りをしていました。
しかしその水はとても量がすくなかったので、水あらそいがおきることもありました。 明治のころから、炭やきさぎょうのため山はまるぼうずになり、山には水がたまっていませんでした。そこで夏がれのころになると、時間を決めて、順番に田んぼに水をいれました。けれど、用水の番をしていないと水がぬすまれてしまうこともあったそうです。
また、小別沢はけいしゃ地なので、田は、広さも形もいろいろで、せまいものでした。そのため、水もちが悪く、しごとがはかどらないので、米作りは他の土地より手間ひまがかかりました。
田植え
道路
福井地区に人が住み始めたころは細い道があるだけでした。ヘビが出たり雨がふるとカタツムリがたくさん出ることもありました。その後、ものを運ぶために馬車を使うようになったため、道もばしゃが通れる道はばになりました。ところが雨がふると馬のはらが埋まるぐらいどろんこの道になってしまいました。
明治20年(1887年)西野道路(二股から手稲東まで)が開通して農作物を市場へ運ぶのがとても便利になりましたが、福井から西の方面に行くには、どうしても発寒川をこえなければなりませんでした。そのためには、橋がひつようです。そのころの橋は、太い木を切って川に渡しただけのそまつなものでした。
そのうえ、この発寒川は、春先の雪どけ水や大雨の時には、よく洪水をおこすあばれ川でした。
古老の話:築山牧場のおじさんに聞く
冷水害
大正2年(1913年)には、左股橋をふくめたくさんの橋が、大水で4回も流され、そのたびごとに橋がかけかえられました。このように毎年、橋の修理が行われるため、大正10年(1921年)には工事費として手稲村から350円が「西野青年団左股共和会」にあずけられました。この会の人たちは、自分の仕事があるにもかかわらず1年間かかて、左股橋のかけかえ工事を行いました。それでも毎年のように大水がでて、橋がこわれます。そこで、福井・平和地区に住む人たちは、発寒川の河岸を整備することを考え、手稲町に申し入れました。工事がきょかされるためには、発寒川河岸の悪いところを見てもらわなければなりません。河岸に住んでいる人たちは土手を整備し、18の丸木橋をかけて、川上(平和地区)までみてもらいました。こうした苦労がみとめられ、昭和38年(1963年)から昭和47年にかけて河岸工事がおこなわれました。こうして大水のひ害はなくなり、人々は安心してくらせるようになりました。
昭和46年には左股橋、が完成し、昭和49年(1974年)には、盤渓橋もかんせいしました。
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左股橋掛け替え工事完成記念
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現在の左股橋
バスの開通
昭和39年(1964年)西野南線として手稲東から福井えんてい(現在の福井分岐点)まで開通しました。昭和43年(1968年)にはえんてい通りまで、昭和50年(1975年)には福井えんていまで路線がえん長されました。昭和51年(1976年)には地下鉄東西線が開通したことによってそれまでバスターミナルや西野ターミナルから出ていたバスが地下鉄琴似駅から出るようになりました。
当初マイクロバス(定員30名)でしたがバスを入れて2年目の冬(昭和26年)大ふぶきで、交通局からバスの運行を止めるぞと脅かされ、それでは困ると、西野の人たち総動員で、スコップで除雪しました。この熱意がみとめられ、運行がつづけられたこともありました。
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福井地区のようす
砕石事業
砕石事業が行われるようになったのは、昭和25年(1950年)ごろからです。五天山は安山岩といわれる岩でできていて、これがじゃりをつくるのには、いい石なのです。周りの山をふくめて、5つの会社があり、砕石をおこなっています。この石は、道路・鉄道道床・コンクリート・家庭用じゃり・すななどに使われています。
昭和54年の生産量は、1社につき1年間で約293万トンで1日1000トンくらいです。これをダンプカーで数えると1日約100台分にあたります。それほどたくさんのトラックが走ることになります。
しかしこの砕石も、町内会の人と砕石会社の人が相談した結果、現在は中止され、その後の広大な土地を利用して、平成20年ころの完成をめざして、大規模な公園を作ることがきまっています。その工事が平成12年から始まっています。
福井ばやし
「福井ばやし」は、昭和55年に生まれました。昭和45年にふるさとの福井県をたずねた福井町内会の人たちが、「明神ばやし」(福井県丹生郡織田町にある1700年もの歴史を持つ劔神社に300年も前から伝わる福井県指定無形文化財です)を聞いて感動し、福井の町内にもぜひ“ふるさとのひびき”を作りたいと思ったのがきっかけでした。ですから「福井ばやし」には“ふるさとのひびき”を通して、福井の子どもたちが自分の郷土を愛する人に育ってほしいという多くの人たちの願いがこめられているのです。
福井ばやし