安産 縁結び 厄除け 厄祓い 勝運上昇 「西野神社」

文字サイズ

祖先のまつり

  1. 納骨堂内の遺骨が多くなり、納まらなくなった場合の正しい対処について教えてください。
  2. 葬祭における仏教と神道の根本的な違いについて教えてください。
  3. 服忌のことと、神事奉仕との関わりについて教えてください。
  4. 服忌期間の神棚の取り扱いについて教えて下さい。
  5. 神道では散骨が許されているのですか。教えて下さい。
  6. 神道のお墓と仏教のお墓の形はどのように違うのですか、教えて下さい。
  7. 仏教から神道に改宗するのにはどのようにすればよいのですか。
  8. 神葬の霊璽と覆いの蓋がありますが、仏葬の位牌には蓋はありません。霊璽に蓋が設けられている理由を教えて下さい。
  9. 神葬の墓石には「奥都城」や「奥津城」「奥城」という文字が刻まれますが、それぞれどのような違いがあるのですか、また、墓石・霊璽に記される霊号、またこれに付される称名(たたえな)の事例を教えて下さい。
  10. 神道には仏教でいうお盆のような行事はあるのでしょうか。
  11. 神葬祭の際に、黄色と白色の旗が用いられますが、何を意味しているのでしょうか、教えて下さい。

納骨堂内の遺骨が多くなり、納まらなくなった場合の正しい対処について教えてください。

納骨堂内に一つの家の遺骨壺が増えて困っており、その対処を如何にしたらよいのかというご質問ですが、具体的状況等により、その対処の仕方も変わってくるかと思います。

まず、遺骨の取り扱いについて、法律的(墓地、埋葬等に関する法律)には、必ずしも墓地への埋納か、納骨堂への収蔵といった対処が求められておりません。ですから火葬後の遺骨をご遺族が自宅に置いておくことにはなんら問題がないのです。然し墓地や納骨堂に納める場合は、市町村長の埋葬許可が必要となります。

勿論この場合の墓地・納骨堂とは法的に定められた場所です。墓地の場合、かつては自己所有地を個人的墓地として使用することが認められていましたが、現在では特別な事情による場合以外、新たに許可されておりません。又納骨堂とは他人の委託を受けて遺骨を収蔵するため、都道府県知事の許可をうけた施設をいいます。

さてご質問の場合は、複数の家の遺骨を収蔵する納骨堂のようですから、法的許可を受けた施設と思います。この場合、同じ域内にある合葬式共同墓地への埋葬や、他の納骨堂に収蔵するにしても、改葬ということになりますから、やはり市町村長の許可が必要となってきます。通常、死亡者の縁故者が申請してこれをおこないますが、すでに無縁となったと思われ、墓地等管理者が改葬を行う場合は、死亡者の本籍地及び住所地の市町村長に対して、縁故者の有無を照会するなど一定の手続きを必要とします。

縁故者の有無に拘わらず改葬を必要とする場合などは、納骨堂使用に関する取り消し条件や期間について、当初より規則として定めておくのが適当です。具体的な期間や条件については特に決まっておりませんので、これから定める場合には、法律に従い、使用者や遺族も納得のいく形で決めればよいかと思います。

また、法的な面は勿論のこと、宗教法人が墓地等を管理することは、あくまで宗教活動の一環として認められていることですので、宗教的な面から支社の尊厳が守られるようにする必要があります。改葬に対しての奉告祭や、改装後の祭祀など、神職としてお祭りが絶えることなく行われるよう注意を払わなくてはなりません。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十三年三月十二日
  • 第二五九二号

葬祭における仏教と神道の根本的な違いについて教えてください。

仏教と神道の葬祭の大きな違いとは、その霊魂観の相違から来るのではないでしょうか。

仏教における理想とは、出家し、修行の積み重ねにより、自ら煩悩を捨てて覚 りの境地に達した方が亡くなるとき、人間的苦悩である六道(天・界・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄・)への生まれ変わりから脱して、湟槃成仏という状態になることを言います。

悟りを得ていない一般人は、亡くなってから四十九日を過ぎると六道のどこかに生まれ変わり、迷いの生を続けねばなりません。

このため仏式葬祭では、仏法の加護で故人が迷わず成仏できるよう本尊に祈ります。四十九日法要などもこのことが中心に行われます。本来、遺骨を散骨するといったことが行なわれていたのも、成仏した後、故人の霊魂が現世と隔絶した存在になると考えられていたからです。

これに対して神道は、現世を第一義に考えています。人が無くなった後も霊魂は不滅であり、祀られて鎮まった〝みたま〟は子孫を見守る祖霊となります。こうした考え方により、葬祭では故人の生前の功績を称え、威徳を偲び、その後祖霊祭(年祭やお盆・お彼岸)で亡くなられた方の〝みたま〟を丁重にお祀りするのです。そこには、故人の霊魂と遺族との直接的な関係があります。現在、仏教に基ずく行事とされているお盆などの〝みたま祭り〟も、本来は仏教と関係なく、日本固有の祖霊信仰に基づくのなのです。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十年八月十七日
  • 第二四七一号

服忌のことと、神事奉仕との関わりについて教えてください。

親族が亡くなったとき、身内の者は喪に服しますが、これについて定めたものが服忌(服喪)制度で、「忌」とは死の穢れを忌むことを、「服」とは喪に従い、死者への哀悼の気持ちを表すことを言います。

戦前までは、江戸時代に武家の間で定められた服忌令が公的な制度として用いられておりました。これによると父母の場合、忌野期間が五十日、服の期間が十三カ月と最長で、親族の範囲により期間が短縮されています。戦後これは廃止され、官公庁に於いては職員の服務規程の中で、配偶者は十日間、父母は七日間など忌引き期間を定めていますが、基本的に各地域の慣例に従っているのが現状です。

神社本庁では神職の服忌心得として、忌の期間を父母・夫・妻・子は十日間、七歳未満の子・祖父母・孫・兄弟姉妹については五日間賭しており、服の期間はその人の心得に任せ、一社の慣例がある場合にはこれに従うとしています。また忌の期間は喪事のみに関わり、この期間が終了したときに祓ひを行うとあります。

氏子の方の服忌について地域に慣例のある場合は言うまでもありませんが、一(或いは四十九日)までが忌の期間で一年祭(一周忌)までが服の期間と考えられているようです。このため、忌の期間である五十日を過ぎれば神祭りを再開しても差し支えないという例が多く聞かれます。

忌の期間中は、鳥居をくぐることを遠慮してもらうとも言います、しかし已むを得ない場合は、祓ひを受けていただけばよいと思われます。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十年九月二十八日
  • 第二四七七号

服忌期間の神棚の取り扱いについて教えて下さい。

前回の質問に引き続き、服忌徒神事との関係についてですが、今回は特に家庭の神棚のことについてお答えしたいと思います。

身内の方が亡くなると、忌の期間中は神社への参拝を遠慮すると言うことはすでに述べましたが、家庭の神棚の場合についても、これと同様なことがいえます。先ず喪主は神棚にその方が亡くなったことを奉告し、産霊(むすび)の神の力により現世(うつしよ)に生を得てから、御神恩を受けて生涯を過ごしたことに感謝するとともに葬儀が無事に執行できるように祈ります。

奉告の後、多くの場合神棚の前面に半紙を貼り、一時的に神棚の祭を止めます。半紙の変わりに屏風などを立てる地域もあるそうです。この期間については場所により多少の差異がありますが、忌明けと考えられている五十日祭(四十九日)迄が一般的なようです。

この他、存命中に社頭にて病気平癒などの祈祷を受けた場合、親族以外の方により神社に直接参拝する(代参)か、もしくは遙拝によって、その祈願を解くこともあるようです。

身内の方が亡くなられた場合、新年に新しい御神札をお祀りすることを遠慮される方もいますが、神棚は毎年新たな御神札に交換するのが本義ですので、忌の期間を過ぎれば御神札を受けて、神棚にお祀りしても差し支えないと思います。もし年末年始が忌の期間に重なるときは忌明の後に御神札を受けて下さい。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十年十月十二日
  • 第二四七九号

神道では散骨が許されているのですか。教えて下さい。

近年、葬儀や墓地に関する一般の意識に変化が見られるようになっていますが、これには核家族・小子化といった家族制度や、都市近郊における墓地の価格急騰・供給不足が原因といわれています。

散骨もこうした意識によるもので、火葬した遺骨を海や山などに撒く葬法を指します。特に法的(墓地・埋葬等に関する法律)にこれを禁止した規定はないため、厚生省では「国民意識や宗教的感情の動向をを注意深く見守ってゆく必要がある」との見解を示しています。

こうした中で、一部の市民グループが、墓を建設しないことから自然環境に優しい「自然葬」と銘打ち、この普及のための活動をおこなったり、葬儀業者でも散骨の希望に応ずるところが出てきています。しかし、散骨がおこなわれた場所の地域住民や自治体との間でトラブルの発生もあり、普及には多くの問題を抱えているといえます。

さて神道の立場として散骨を受容できるのかという御質問について、統一的見解はありませんが、現時点では「慎重に対応していく」との考えが一般的ではないかと思われます。

平成七年に全日本葬祭業共同組合連合会が全国的に実施した調査報告や、平成九年の東京都霊園管理問題等検討委員会の答申を見ると、他人が散骨を希望することは認めるものの、自らの葬儀では圧倒的多数が墓地に葬られることを希望するというものでした。

この結果、まさに日本人の国民意識を反映したものということができます。我々は墓地を築いて先祖に対する祭祀をおこない、それを伝統的思想と理解してきました。ですから自らも先祖代々の墓地に葬られることを当然のこととして受け止めているのです。

将来的に法的な整備がおこなわれて、散骨も多様化する葬法の一つになることは考えられますが、神道的に考えれば、広く普及することはないと思います。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十一年十月十八日
  • 第二五二七号

神道のお墓と仏教のお墓の形はどのように違うのですか、教えて下さい。

神式と仏式のお墓の形の違いのことですが、両者とも一般的には似ており、大きな違いはありません。これはお墓を設けること自体、インドを発祥とする元来の仏教の教えにはなかったことであり、祖先のお祭りをおこなうという日本の風俗習慣に基づくものだからです。

我が国では各家庭の御霊舎(みたまや)や仏壇で祖先のお祭りをおこない、遺骨を埋納する墓地においても同様に祭り、供養がおこなわれてきました。

お墓は古代における墳墓から、仏教の影響により火葬がおこなわれるようになった中世、また寺請制度により広く一般民衆に至るまで墓が築かれるようになった江戸時代以降という歴史的変遷や、捨て墓と詣り墓の二つの墓を築く両墓制をおこなっている場所など、地域の風習による違いなどもあり、神仏による形態の違いについて一概に特徴を挙げることはできません。

しかし、強いて違いを述べるのであれば、神道式では墓石の頭部の部分が平坦でなく、先端部を尖らせて四方を鋭角に刻む剣先状の形としていることなどの事例があります。

また仏式でお線香立てが設けられている部分に、供物を供える八足台(はっそくだい)が設けられていることもあり、墓石の正面には「~家の奥津(都)城」(おくつき)のように家名と「奥津(都)城」の文字を記することがあります。

また当然仏式の戒名は用いず、墓石に故人の名を刻むときは大人(うし)や刀自(とじ)、また命などの尊称を、生前の姓名の下に付した諡名(おくりな)を用います。

この他、自然石に家名を刻んで用いたり、墳丘型という土饅頭の形態にしたり、墓前に鳥居を設けたりしたものなども神道式の墓の例としてあげることが出来ます。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十二年六月十二日
  • 第二五五七号

仏教から神道に改宗するのにはどのようにすればよいのですか。

信仰は心的なものであり、特に神道では、キリスト教やイスラム教に見られる信仰告白などのような改宗に伴う儀礼は、ありません。神道は我が国の伝統的な風習や日常的な儀礼に基づいた信仰であり、こうしたことを日々の生活の中で実践することが、神道を信仰していることとなるからで、神道への信仰は、他教のように一宗一派に入信するといった考え方によるものではないといえます。

毎年、各宗教団から届け出のある信者数は日本の全人口と比しても、かなり人数の多いものとなっています(『宗教年鑑』)が、これは、神社の場合、基本的に氏子区域内に住居する方を全て氏子と考えていることなども理由の一つとして考えられます。一人の方がお寺の檀家であり、また神社の氏子でもあるという複数の信仰を持つことを意味しますが、神道と仏教の密接なる習合の歴史や、古くからの日本人の信仰の在り方に鑑みても違和感のないことと言えます。

その中でも、神道を信仰しているということを、外面的で象徴的に現すことといえば、その家の祖先祭祀を神道でおこなっている点が考えられます。

具体的には、各家庭に仏壇でなく神式の祖霊舎を設けて、位牌の代わりに霊璽(れいじ)が祀られることとなります。神職により神道に改宗する旨を祖先の霊前(墓前を含む)に奉告し、仏式の位牌から霊璽へ御霊を遷す祭りがおこなわれ、過去帳の代わりに霊簿が用意されます。この際、仏壇や位牌は今まで祖先が祭られてきたのですから、粗相のないよう取り扱う必要があります。また、墓所の祀り方も神式となるため、墓石や墓誌に法名が刻まれている場合には、神式の諡名(おくりな)に改める必要があります。墓所が公営霊園にある場合は問題ありませんが、寺院付属の墓地の場合は、寺院とのトラブルが無いようにしなければなりません。いづれにしても、改宗は個人的な問題とともに祖先祭祀を含めた家庭祭祀の変更でもあるため、身内とよく話し合った上で、葬儀や年祭を奉仕して戴く地元の神主の方に相談をする必要があります。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十二年十月九日
  • 第二五七三号

神葬の霊璽と覆いの蓋がありますが、仏葬の位牌には蓋はありません。霊璽に蓋が設けられている理由を教えて下さい。

神葬の霊璽と仏葬の位牌の違いを見るとき、霊璽の蓋はその特徴の一つとして考えられるようです。

神道では、亡くなった親族の方の祖霊を霊代(みたましろ)にお祭り致します。この霊代には、霊璽が用いられたり、神鏡・幣串や笏、また故人の遺品を用いる場合もあります。このように霊代にはいろいろと種類があるわけですが、現在では霊璽を用いることが多いようです。

霊璽は、元来、中国の儒教で、祖先祭祀をおこなう際の祖霊の霊代として用いられ、木主(もくしゅ)・神主(しんしゅ)とも言われていたものです。これが仏教にも受容され、日本では中世に初めて禅宗で位牌が用いられ、江戸時代に広く普及しました。

神道では近世以降、神職や学者により我が国固有の葬儀の形を求めて、神葬を考究するさまざまな動きがあり、この中で、祖霊祭祀に対する考え方が近い儒教の制も参考としました。現在の霊璽の形が、儒教のものと似ているのもこうした理由によるものです。

さて、神道の、霊璽の蓋についてですが、他に霊代として用いられる神鏡にも樋代(ひしろ)という蓋がされたり、幣串や笏が檀(とく)という厨子に納められることと同様に、祖霊の依り代となる霊璽が、直接、人の目に触れることを避けてのことと考えられます。これは仏教と神道の根本的な性格の違いとして指摘されるように、仏教では本尊とされる仏像でも拝観の対象となりますが、神道の場合、神は形として目に見えぬ霊性であるといった考え方にも関連することと思われます。

次に霊璽を覆っている蓋を取るのは何時かということですが、日常は蓋をしたままの状態でお祭りをし、年祭や春秋季例祭(彼岸)、また中元祭(盆行事)などのお祭りに際しては、蓋を取ることもあります。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十二年十月三十日
  • 第二五七五号

神葬の墓石には「奥都城」や「奥津城」「奥城」という文字が刻まれますが、それぞれどのような違いがあるのですか、また、墓石・霊璽に記される霊号、またこれに付される称名(たたえな)の事例を教えて下さい。

神葬の墓石に刻まれる「奥都城」「奥津城」「奥城」の文字は「おくつき」と読み、墓を指す語として用いられます。「おく」とは、奥深いことの「奥」や海上の「沖」また「置く」を意味するといわれます。また「津」「都」は(つ)と読み、現在よく使われる「の」と同じ格助詞で、上代に用いられていたものです。「城(き)」は棚・壁などで四辺を取り囲んだ一郭の場所をいい、「柩(ひつぎ)」という意味もあるとのことです。全体の意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた境域」ということ、また「柩を置く場所」、或いは水葬がおこなわれていたとする慣習からの「柩を海の沖に放つこと」などの諸説が見られます。

「奥都城」「奥津城」「奥城」の文字の違いについてですが、「奥城」は格助詞の「つ」を記さない形であり、「都」と「津」は表意文字ではなく、単に「つ」という日本語の表音に当てはめた万葉仮名ですので、意味において大きな違いはないと思われます。但し、葬儀は地域の慣習が重視されますので、その地域地域で用いられる文字が定まっているようです。

次に霊号に用いられる称名は、年齢・性別や出自・社会的功績などに応じてさまざまですが、現在では年齢・性別のみで選ばれることが多いようです。乳幼児には稚児・若子などが、児童には男子が童子、女子が童女、青年では男子に比古(彦・ひこ)・郎子(いらつこ)、女子には比賣(姫・ひめ)・郎女(いらつめ)、壮年の場合、男子が大人(うし)、女性が刀自(とじ)、また老年では、男子が老叟(ろうそう)・翁(おきな)、女性が大刀自(おおとじ)・媼(おうな)などがあります。

また、霊号に冠するものとして、「惟神」や「神紙」「天津」などの事例とともに「漏岐」「漏美」などの例も見られます。祝詞や宣命の中には「神漏岐神漏美命」という語が用いられ、「神漏岐」が男性神の総称を、「神漏美」が女性神の総称を意味し、共に遠い祖神に対する尊称とされておりますので、恐らくこれを避けて「神」の文字を取った「漏岐」「漏美」をそれぞれ男女を区別するものとして霊号に冠するようになったものと思われます。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十二年十一月十三日
  • 第二五七七号

神道には仏教でいうお盆のような行事はあるのでしょうか。

お盆については、多くの方が仏教の行事と考えているようですが、元来は仏教と関係の無い日本固有の先祖祀りがもとになっています。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養を仏式によるよう強制したため、お盆も仏教のみの行事と誤解されて、現在に至っているのです。

ですから神道の家庭においても、お盆の期間中には、自宅の祖霊舎を清めて、季節の物などをお供えし、家族揃って御先祖さまをお祀りします。

我が国では、古くから神祭りと共に、御先祖さまの御霊を丁重にお祀りする祖霊祭祀がおこなわれ、人々は神と祖霊の加護により平安な生活を過ごしました。この神とは唯一絶対の神でなく、自らと繋がりのある御先祖さまが徐々に昇華して神となった御存在であると信じてきました。

年中行事の中で、お盆と正月が二大行事として重視されるのも、お盆が御先祖さまを、お正月が神様をお祀りする行事として、いづれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという意味を持つからなのです。

ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経』という経典によるものであり、仏弟子の目蓮が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために、釈迦の教えで、七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)まで餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものです。

仏教が我が国に伝来すると、こうした盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院においておこなわれるようになりました。当初は僧侶の供養が中心だった「盂蘭盆会」は、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、御先祖さまを祀る「お盆」となりました。

現在、地域や各家庭により新・旧暦を基準とし、七月十五日前後にお盆がおこなわれますが、いづれにしても、日本古来からの大切な「先祖まつり」の時であることに変わりはありません。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十三年八月十三日
  • 第二六一二号

神葬祭の際に、黄色と白色の旗が用いられますが、何を意味しているのでしょうか、教えて下さい。

神葬祭の際、斎場の御霊前の真榊に掛けられる絹布や紙垂に黄・白色の二色が用いられたり、出棺に際して葬列を組むとき、個人の名前を記した銘旗とともに、黄と白色のそれぞれの旗が葬列用具として用いられたりします。

通常、神社の社頭にある真榊に掛けられる絹布は五色のもので、陰陽五行説に基づき、「青・赤・黄・白・黒」のそれぞれの色が、順番に宇宙の森羅万象を表す五元素である「木・火・土・金・水」、または「東・南・中央・西・北」の方位や、「春・夏・土用・秋・冬」という季節を表すものであることは、以前(第二五八一号)に述べたことがあります。

葬儀の際の黄・白色も、やはりこの説に関わるもので、黄は土であり、中央を意味するため最も尊いとされ、白は秋であり万物の結実を表すとともに、太陽の沈む西の方位を意味するため、この二色は人生の終焉に際して、葬儀がおこなわれ、土に還ることを象徴するものということができます。

さて、葬礼に旗が用いられたことについて、古くは『日本書紀』の一書に、伊弉冉尊が火神をお生みになった時、火傷により亡くなられたため、紀伊国熊野の有馬村に葬り申し上げたとあり、その後、その土地の人々が「此の神の魂を祭るに、花時(はなあるとき)には、亦花を以て祭り、又鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用いて歌い舞いて祭る」と旗を立てて歌舞をし、墓前祭が執行されたとあります。

現在、この場所(三重県熊野市有馬町)には、花窟(はなのいはや)神社が鎮座しており、祭日には御神体である大岩壁に綱がかけられる「お綱かけ神事」がおこなわれていますが、元々はこれの代わりに朝廷から下賜された錦の旗が立てられていたとの伝えがあり、旗を立てることが墓所の場所であることを認識するためであったという説もあります。

  • 神社新報 『神道いろは』より転載
  • 平成十三年九月十日
  • 第二六一六号

西野神社

〒063-0021
札幌市西区平和1条3丁目
TEL:011-661-8880
FAX:011-665-8698
Mail:mail@nishinojinja.or.jp