その他1
- 神社で引く「おみくじ」について教えてください。また、引いた後の「おみくじ」は持ち帰っても良いのでしょうか。
- 「神宮」「神社」の名称の違いについて教えて下さい。
- 仏教では、「南無阿弥陀仏」など簡単なお祈りの言葉がありますが、神道でも同じようなお祈りの言葉がありますか。
- 氏神様の神社の総代と檀家であるお寺の総代を兼ねることは、おかしな事なのでしょうか。
- 国旗と外国旗や会旗(社旗)などを一緒に掲揚する際の挙げ方について教えてください。
- 清め祓ひに塩が使われますが、何故塩を用いるのですか。その意味について教えてください。
- 氏神様の神社と崇敬神社の違いについて教えてください。
- 建国記念日の意味について教えて下さい。
- 祝宴などの締め括りにおこなう手締めには、どのような意味があるのですか。
- 伊勢の神宮には内宮と外宮があり、外宮を先に参拝するのが慣例のようですが、何か理由があるのでしょうか。
- 神社の祭典や地鎮祭などに、葷菜類(ニンニク・タマネギ等)をお供えしてはいけないのでしょうか、教えて下さい。
- 祭礼のときに担がれる御輿について教えて下さい。
- 祓詞の中に「罪穢あらむをば」とありますが、神道でいう「罪穢」とはどういう意味なのか、教えて下さい。
- 神社名と共に用いられる「官幣大社」や「国幣大社」というような呼び方について、教えて下さい。
- 昭和天皇の即位礼に立てられた「萬歳旛」に描かれている図柄の意味について教えて下さい。
- 各家にはそれぞれの家紋がありますが、神社にもそれぞれ定まった紋章があるのでしょうか。
- 稲荷神社の社殿前に設けられている狐が口に銜えているものは、なんでしょうか。それぞれの意味などについても、教えて下さい。
- 神社に関するこについての数量の呼び方(助数詞)について教えて下さい。
- 神社の巫女になるためにはどうしたらよいのでしょうか。
- 神社に奉納する絵馬の由来やその信仰について教えて下さい。
- 神道のお酒や肉食に対する考え方について教えて下さい。
- 神職の資格や職名について教えて下さい。
神社で引く「おみくじ」について教えてください。また、引いた後の「おみくじ」は持ち帰っても良いのでしょうか。
お正月に神社に参拝した際に「おみくじ」を引き、今年の年回り(運勢)などを占われた方も多いかと思います。 一般的に「おみくじ」は、個人の運勢や吉凶を占うために用いられているわけですが、種類もいろいろとあり、神社ごとに工夫も窺うことができます。その内容には、大吉・吉・中吉・小吉・末吉・凶という吉凶判断、金運や恋愛、失せ物、旅行、待ち人、健康など生活全般に亙る記述を見ることができます。また、生活の指針となる和歌なども載せられています。
そもそも占いとは、物事の始めにあたって、まず神様の御神慮を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れとも言えます。例えば、小正月などにその年の作柄や天候を占う粥占神事や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ際に、御神慮に適う者が選ばれるよう「くじ」を引いて決めることなど、古くから続けられてきました。「おみくじ」もこうした占いの一つと言えます。「おみくじ」を吉凶判断の目的として引くのではなく、その内容を今後の生活指針としてゆくことが大切なことと言えます。
凶などの「おみくじ」を神社境内に結んで帰る習わしもありますが、「おみくじ」を持ち帰って充分に読み返し、自分自身の行動に照らし合わせたいものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年一月十二日
- 第二四四三号
「神宮」「神社」の名称の違いについて教えて下さい。
「神宮」「神社」の名称は、神社名に付される称号で社号と言います。
現在「神宮」と言えば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられております。また、「神宮」の社号を付されている神社には、皇室の御祖先をお祀りしている霧島神宮や鹿児島神宮、また歴代天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。この他、石上神宮や鹿島神宮・香取神宮やど特定の神社に限られています。
これに対して「神社」は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられております。また、「宮」や「大社」などの社号もあり、「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や、由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われます。「大社」は元々、天孫に国譲りをおこない、多大な功績をあげた大国主神を祀る出雲大社を示す社号として用いてきました。しかし現在「大社」は、広く崇敬を集める神社でも使われております。
この他、社号と異なりかすが、古くから神様の名前に「大神」や「大明神」、また神仏習合の影響による「権現」といった称号を付して、社号に類するものとして一般的に用いられ、信仰されています。
このように神社により社号は異なりますが、それぞれの神社に対する人々の篤い信仰には聊かの変わりもありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年二月二十三日
- 第二四四九号
仏教では、「南無阿弥陀仏」など簡単なお祈りの言葉がありますが、神道でも同じようなお祈りの言葉がありますか。
仏教で唱える「南無」とは、梵語(サンスクリット)の音訳で、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依して救いを求める唱え言です。 これに対して神道では特別な唱え言はありませんが、神社に参拝するときや神棚を拝むときに、「祓へ給ひ、清め給へ、守り給ひ、幸へ給へ」(お祓い下さい、お清め下さい、お守り下さい、幸せにしてください)という略拝詞を唱える場合もあります。神道では自らの祓い清めが、信仰的にも神様に近づくための大切な願いとなってくることからです。
この他、古くは占いに関連して用いられ、その後、神様を拝むときに用いられるようにもなった「吐普加美依身多女」(とほかみえみため)という唱え言があります。この言葉の本来の意味ははっきりしていませんが、「遠神能看可給」(遠つ御祖の神、御照覧ましませ)、或いは「遠神笑美給」(遠つ御祖の神、笑み給へ)といった意味であるとも言われています。もともと、占いに用いられた言葉なので、「神様の御心が明らかになりますように」という意味であったのではないかと思われます。
我が国には、古来より言葉には霊力が宿り、口に出すことによって、その力が発揮されるという言霊の信仰がありました。神社にお参りする際に、具体的な願い事を声に出して唱えるのも、こうした信仰に沿った作法となります。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年三月二十三日
- 第二四五三号
氏神様の神社の総代と檀家であるお寺の総代を兼ねることは、おかしな事なのでしょうか。
神社の総代を務めている上に、檀家であるお寺の総代もお願いされており、これに多生のとまどいを感じているとのご質問ですが、地域に於いて人望が厚く、また、有能な方にはこうしたことも多いのではないかと思います。
確かに神社の総代とお寺の総代とでは、その意味も異なってきます。このため、二つを兼ねること自体を矛盾と捉える考えも有るようですが、日本人特有の信仰や歴史的側面を考えた場合、こうしたことが決して矛盾することではなく、また間違ったことではないことに気付くのです。
仏教の日本への伝来は六世紀中箱路と云われておりますが、このときに伝わってきた仏教は、インド発祥の本来性格とは異なり、中国・朝鮮など経由してきた地域の影響を色濃く受けたものでした。その後、我が国の神祇信仰や祖先祭祀の影響を受け、これを取り入れたため、仏教は日本の宗教の一つとして、広範囲に普及することができました。これは外来宗教も寛容な日本人の気質によるとともに、大半の仏教宗派もこれをよく理解し、日本の社会や慣習に沿う形で布教を行ってきたためであるといえます。
我々日本人の普遍的な信仰には「敬神崇祖」(神を敬い、祖先を尊ぶ)という考えがあります。これに外れていない教えを説く仏教宗派で有れば、神社に対する崇敬と何ら相反するものではなく、兼ねて御奉仕しても差し支えないのではないかと思います。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年七月二十七日
- 第二四六九号
国旗と外国旗や会旗(社旗)などを一緒に掲揚する際の挙げ方について教えてください。
一年を二十四に分ける節気のうち、四季の節目を指す立春・立夏・立秋・立冬。この内でも、特に冬(陰)から春(陽)に移り変わる立春が、節気による正月節として重視されたため、一般的には立春の前の日を節分と呼んでいます。
節気と旧の暦月では差異があり、旧暦でみると、十二月中旬から一月中旬までの時期に節分が廻ってきます。また現行歴によると二月三日・四日がこれに当たり、この日には一年間の無病息災を祈る節分行事がおこなわれます。
この行事は、古くは中国でおこなわれていたものであり、我が国に伝来した当初は、大儺(たいな)と呼ばれておりました。文武天皇の御代(七〇六年)に、全国で疫病が蔓延したため、宮中において初めて大儺が執行され、その後、疫病の原因と考えられた鬼(陰)を追い払うために、暦月による十二月晦日におこなわれました。
当時の大儺は、儺人(なひと)と呼ばれる役目の者が、方相氏(ほうそうし)の仮面を付け、桃の弓・葦の矢・戈といった武具を持ち、「鬼やらふ」と歓呼しながら目に見えぬ鬼を追うものでしたが、やがて大儺から追儺(ついな)へと名称が変わるにつれて、本来鬼を追う儺人が、鬼のような仮面を付けていたため、逆に目に見える鬼として追われるようになりました。
室町時代以降、神社や民間でもこれに倣い、現在のように節分の日に定めて、豆を撒きながら鬼を払い、福を迎える祭事としておこなわれ、今日に伝えられています。
このように行事内容や時期などに変遷もありましたが、新年の無事を祈る人々の篤い願いには変わりはありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年一月二十五日
- 第二四九二号
清め祓ひに塩が使われますが、何故塩を用いるのですか。その意味について教えてください。
ご質問にある塩とは、葬儀の際、会葬者に配られる清め塩のことかと思いますが、この他、力士が土俵上で撒く塩や、料理店の店先などに盛られる盛り塩にも同様に、清めの意味があると言われております。
清めに塩を用いることは、我が国の宗教的習俗であり、海水を意味する「潮」とも通じて様々な風習があります。古くは記紀神話に、黄泉の国より戻った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が自らの体に付いた黄泉国の穢れを祓うため、海水にて禊祓(みそぎはらい)をおこなったことが記されています。
このことが民間においては「潮(塩)碧離(しおごり)」といって海水を浴びて身を清めたり、海水を沸かした「塩湯」が病気治療や無病息災のために用いられるといった風習に繋がっていきました。これも塩が持っている優れた浄化力や殺菌力を周知していたためです。
現在神社の祭りにおける祓いでも、塩水によるお清めを行う塩湯(えんとう)が用いられるのも、こうした信仰に基づき、非日常と日常とを別ける清めの行為を象徴的におこなうものといえます。
塩の持つ力に祓ひの願いを託すことは、我々の祖先から受け継がれてきた英知によるのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年十一月三十日
- 第二四八五号
氏神様の神社と崇敬神社の違いについて教えてください。
全国の神社については、皇祖神をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、この他を氏神神社と崇敬神社の二つに大きく分けることができます。
氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方を氏子と称します。
元来は、文字通り氏性を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁深き神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでおりました。現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。
これに対して崇敬神社とはこうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社を言い、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。神社によっては、御由緒や地勢的な問題により氏子を持たない場合もあります。このため、こうした神社では、神社の維持や教化活動のため、崇敬会などといった組織が設けられています。
氏神神社と崇敬神社の違いとは、以上のようなことであり、一人の方が両方を共に信仰(崇敬)しても差し支えないわけです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年一月十一日
- 第二四九〇号
建国記念日の意味について教えて下さい。
毎年二月十一日は建国記念日の日であり、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として国民の祝日に定められ、我が国が国家として成立する際に尽力された先人に対する感謝の気持ちと、こうした努力により建国された祖国への愛国の心を育むための日とされています。
戦前、この日は「紀元節」と呼ばれており、初代の神武天皇が葦原中国(日本)を平定され、橿原宮にて御即位された「辛酉(かのととり)年春正月庚辰朔(かのえたつのついたち)」の日を、現行暦に合わせて算定した二月十一日があてられました。
我が国を建国なされた神武天皇に対する朝野の篤い崇敬は、近世以降、神武天皇をお祀りする神社創建(橿原神宮)の動きにも見えました。また、明治維新に際して、「諸事、神武創業の始めに原(もと)づく」ことを国の方針とした新政府により、神武天皇御即位を我が国の紀元と定めて、明治六年には紀元節が祝日として制定されました。
戦後、占領下による一時的な混乱により、紀元節は已むなく廃止されましたが、我が国の建国を祝う日の復活を強く願う国民全般の声により、昭和四十一年には建国記念日の日として法制化されて、縁深き二月十一日が選ばれました。
私たちが新たな時代に向かって歩んでゆくためにも、我が国の基(もとい)を振り返るこの日は、大切な意味を持っているのではないでしょうか。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年二月八日
- 第二四九四号
祝宴などの締め括りにおこなう手締めには、どのような意味があるのですか。
手締めとは、物事の落着や無事な決着を祝っておこなう拍手のことであり、取引や和解などが成立した際に、双方が揃って手締めをすることを手打ち式とも言います。
神社の酉の市では、露天商と熊手を求めた人とが、掛け声とともに手締めをおこないますが、これは双方で値段などの話し合いの結果、無事に交渉が成立したことを意味します。
拍手とは賞賛や喜びを表す万国共通の表現であり、我が国では『魏志倭人伝』に、貴人に対する敬礼の所作として記されています。このことは神社参拝に際して、神様に対しておこなう拍手として、現在も受け継がれています。
一方『古事記』では、雄略天皇が一言主大神に捧げ物を献上した際に、大神が手を打って受け取られたとあり、本居宣長はこの手打ちを物を得て歓喜する様子であるとしています。
古い神社のお祀りによっては合拍手(あわせはくしゅ)と言って、勅使(天皇陛下使者)が奏上した御祭文を、宮司が受けて御神前に納める際に、宮司の拍手の後に勅使と宮司が会わせて拍手をします。これは双方におて授受の確認を表す作法であるとも言われております。
地域によって、一本締めや三本締めなどさまざまな流儀がありますが、お互いの意志を確認し、一致団結を図っていくために、古くから伝えられてきた大切な生活習慣であると言うことができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年三月八日
- 第二四九八号
伊勢の神宮には内宮と外宮があり、外宮を先に参拝するのが慣例のようですが、何か理由があるのでしょうか。
この理由を説明するには、まづ内宮と外宮の御鎮座についてお話をする必要があります。
内容とは、高祖天照大御神をお祀りする皇大神宮のことです。内宮の御鎮座は、皇孫葦原中国への降臨に際して、天照大御神が皇孫にお授けになられた八咫鏡に由来します。天照大御神はこの御鏡を自らの御魂として、皇孫(天皇)と同じ御殿にて奉祀するよう命ぜられました。しかし、第十代崇神天皇(すじんてんのう)は、その御神威を畏み、皇女によって皇居外の神聖な地を選んでお祀りするようになり、やがて、第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代になり、伊勢の地に御鎮座なされたのです。
外宮とは、豊受大御神をお祀りする豊受大神宮のことを言います。第二十一代雄略天皇の御代、天照大御神が天皇に、丹波国(現在の京都府と兵庫県の一部)より自らの御饌を奉る神として、豊受大御神をお迎えするようお告げになられました。
そして自らの命により、豊受大御神を伊勢の地にお迎えになった天照大御神は、「我が祭りに仕え奉る時は、先ず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」(『太神宮諸雑事記』)と重ねて命ぜられました。
この神託により神宮では、古くから重儀である三節祭(六・十二月の月次祭、神嘗祭)においても、先ず外宮でお祭りした後、内宮でお祭りするという、外宮先祭(げぐうせんさい)により祭祀がおこなわれ(『延喜伊勢大神宮式』)、現在に至っています。参拝に関する慣例もこれに基ずく物と言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年三月二十二日
- 第二五〇〇号
神社の祭典や地鎮祭などに、葷菜類(ニンニク・タマネギ等)をお供えしてはいけないのでしょうか、教えて下さい。
いわゆる臭気の強い野菜がお供えとして適当であるかという質問ですが、これには幾つかの考え方があるかと思われます。
仏教には「不許葷酒入山門(葷酒山門〈寺院〉に入るを許さず)」と言う言葉があり、よく寺院の前に立つ戒壇石にこの言葉が彫られています。飲酒はもとより仏教の戒律によって禁じられていますが、葷(くん=葱、韮、大蒜など臭気のある野菜)は、食することにより臭気を発するため不浄と感じられ、また精力のつくものであるため、修行の妨げになるとして出家者(僧侶)の間での飲食や、寺院への持ち込みが禁じられました。こうした影響を受けて、神社でも臭気のある野菜をお供えすることを遠慮するという考え方が広まったものと思われます。しかし、葷とは広く鳥獣魚肉を含むとの解釈もあり、鳥獣などの殺生を禁じたものであるとも考えることができます。
一方、神道の考え方からは、特別な事例を除き、特に禁忌となる食物があるとは思われません。神道では万物の生成発展は神々のお力によるものであるとの考えがあり、私たちが必要とする全ての食物もそのお陰によるものですので、感謝の気持ちによりこうした食物を神前にお供えすることは当然のことであるからです。お酒や魚、鶏肉なども神饌としてお供えされますし、初物など、是非とも神様に召し上がって戴きたいとの気持ちがあれば、葷菜類もお供えして差し支えないのではないでしょうか。
特に生産地では、収穫を奉告し感謝の祭りを斉行するにあたって生産物を供えることが普通のことと考えられます。
しかし、祭典でのお供えですので、清浄さを欠くと感じられる時はやはり遠慮したいものです。特に臭気の強いものは、その祭りの意義や場の雰囲気を考慮した時に、不釣り合いなことがあります。そうしたことと仏教からの影響で、葷菜類を神饌として供えることを遠慮する考えが広まったといえますので、その点を考慮することも必要でしょう。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年三月二十六日
- 第二五九四号
祭礼のときに担がれる御輿について教えて下さい。
初夏の訪れとともに全国の神社では、多くの祭礼がおこなわれています。その中でも御輿の渡御は担ぎ手はもとより、大勢の見物人までが酔いしれる勇壮な神事です。
この次第は、御輿に御分霊をいただき、神社を出発する「宮出し」(出御)に始まり、途中、御旅所に立ち寄りながら氏子区域を練り歩き(渡御)、再び神社に戻って、御輿から御神座へお遷りいただく「宮入り」(還御)となっています。
御輿とはその名称の通りに、神幸に際して神霊(御霊代)を奉安する輿のことを言います。元来、輿とは貴人が用いたり乗り物の総称ですが、中でも天皇の行幸に際して用いられた「鳳輦」「葱華輦」が、神祗の奉還の際にも用いられるようになりました。
御輿の起源については、はっきりしていませんが、天平勝宝元年(七四九)に宇佐神宮の八幡神が来京して、奈良東大寺の大仏建立を援助するとの託宣を下した際、この遷座に初めて紫色の輿が用いられたとも伝えられています。(『続日本記』)。
平安時代以降、御輿による神幸が広く普及するようになると、その様式もそれぞれ時代の意匠を伴った形で変化していきました。比叡山延暦寺の僧兵による朝廷への強訴に際して、鎮守神である日吉大社の御輿が奉載されたことは有名です。
近世に入ると、祭りを支える町人層が富裕になるに従って、御輿渡御もさらに盛大となり、現在に至っています。
実際に御輿を担いでみると感じますが、神と人との間は勿論のこと、人と人との関係を結びつける働きもあり、これが盛んにおこなわれている理由の一つのように思われます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年六月十四日
- 第二五一〇号
祓詞の中に「罪穢あらむをば」とありますが、神道でいう「罪穢」とはどういう意味なのか、教えて下さい。
「罪穢」とは、災厄が起こる原因と考えられている諸々の「罪」と、神事をおこなう忌み憚られる「穢」という二つの意味に分けて考えることができます。「罪」については、延喜式巻八に収められている大祓詞に「天津罪・国津罪」として、二十以上に及ぶ罪が述べられています。これによると天津罪には主として農耕を妨害する行為が、国津罪には傷害や不倫姦淫、他人を呪詛することという反社会的行為が挙げられています。
これらは律令制が規定されるまで、具体的な罪名とされてきたことであり、この「罪」に対する代償として祓えつ物(贖い物)を差し出すという「祓」が義務付けられていました。
「穢」とは、「浄明正直」の言葉で現せることとは異なるものが自らの身につく状態を指します。これらには死、病など日常とは異なる諸事があり、自らの行為による「罪」と異なり、受動的に起こる現象と考えられてきました。「穢」は神事への関与が憚られるほか、他人に災いを与えるものともされ、これへの対処として、水などによりこの「穢」を流し去る「禊」がおこなわれてきました。
一般的には、広義での「穢」の中に「罪」が含まれるという考え方があるため、祓詞のように「罪穢」として同一に用いられることも多いようです。「禊」と「祓」とが「御祓」と混同されるのもこのためです。
神道には、キリスト教のように人が生まれながら負っている「原罪」という考え方はありません。誰もが日常的な生活の中で犯してしまう恐れのある「罪穢」に対して、常に慎みの心を持ち、身体を清浄な状態に保つために「御祓」をおこなうことが、その基本的な考え方と言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年六月二十八日
- 第二五一二号
神社名と共に用いられる「官幣大社」や「国幣大社」というような呼び方について、教えて下さい。
神社名と共に「官幣社」や「国幣社」という名称が用いられることがありますが、これを社格と言います。
この社格は、それぞれの時代の神祇制度により内容が異なっています。古代には律令制の確立とともに、国家が全国の神社の中から特に官社という社格の神社を定めました。官社では毎年の祈年祭に幣帛が供される他、災害や全国的な疫病蔓延などに際して、公の祈願がおこなわれました。
『延喜式』神名帳には、二千八百六十一社に及ぶ官社が記載されており、神祇官より幣帛を受けるのが「官弊社」、また国司より受けるのが「国弊社」とされ、この中でも案上に幣帛を供えるのが「大社」、案下に供えるのが「小社」と規定されました。この他、特に霊威ある神には「名神大社」という社格が与えられました。
中世に入り往時の社格制度は形骸化していきますが、現在でも『延喜式』神名帳所載の神社を特に「式内社」と称し、歴史の古い神社であることを示す神社の一つとして用いることがあります。
明治時代には「祭政一致」を国是とした新政府により、神祇制度も改正されました。社格制度も全国神社を「官社」と「諸社」とに分けて、「官社」では皇室より幣帛料が共進される「官幣社」と、国庫から共進される「国幣社」とが、それぞれ「大社」「中社」「小社」に分けられました。この他、新たに「別格官幣社」という社格が、皇室や国家に忠功のあった臣下を奉斎する神社などに与えられました。
「諸社」では、府県内での崇敬を有する「府県社」、郷・村内において崇敬を有する「郷社」や「村社」などに分けられました。
戦後、この社格制度は廃止されましたが、現在でも陛下が各地方に行幸される際には、当地の旧官国幣社等に幣饌料をお供え遊ばされます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年七月十二日
- 第二五一四号
昭和天皇の即位礼に立てられた「萬歳旛」に描かれている図柄の意味について教えて下さい。
即位礼当日は、皇祖に即位の旨を御奉告遊ばされる即位礼当日賢所大前の儀と、宮中正殿の高御座(たかみくら)にお着きになり、広く内外に即位を宣明する即位礼正殿の儀がおこなわれます。
即位礼正殿の儀では、皇族・外国元首・三権の長をはじめとした角界代表が参列し、内閣総理大臣が御前にて新天皇の御即位を寿ぐ寿詞を奏上した後、万歳を三唱し、参列者もこれに合わせて唱和します。
この正殿の儀の前庭には、太刀や弓を捧持した威儀物捧持者が装束姿で整列し、萬歳旛の他、日像・月像の纛旛(とうばん)、大・中・小の錦旛(きんばん)が立てられます。
旛類など調度の詳細は、その時代により多少の変化が見られます。今上陛下の即位礼では、雲型模様赤地錦に海部俊樹内閣総理大臣(当時)の揮毫にかかる「萬歳」の二文字が金糸で刺繍された萬歳旛が用いられました。
御質問にある昭和天皇の即位礼に立てられた萬歳旛は、記録によると赤地雲形文錦で作られ、これの上部には、水の流れの中に年魚(あゆ)五尾と巌瓮(いつべ)一箇の文様があり、その下に「萬歳」二文字の金繍が施されていたとあります。
この年魚と巌瓮の由来は、神武天皇が御東征のとき、戦勝を神祇に祈り、巌瓮を丹生川(にふのかわ)に鎮めたところ、祈請(うけい)の通り、大小の魚が酔いて浮かび上がってきたことに基づくもと言われています。『日本書紀』
この他にも、大錦旛の文様が、神武天皇の御東征の祭に先導をした八咫鳥(やたがらす)であったことなど、旛類は儀式に彩りを添えるだけでなく、皇室の弥栄を祈る文様が描かれていました。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年八月十六日
- 第二五一八号
各家にはそれぞれの家紋がありますが、神社にもそれぞれ定まった紋章があるのでしょうか。
各家の家紋と同じようにそれぞれの神社にも紋章が用いられており、これを神紋と称しています。
我が国における紋章の起源は、平安時代に武家社会において用いられた紋章に遡ることができます。始めは各自の好みの文様を、それぞれの衣装や調度に装飾的な意味で用いていましたが、段々と父祖伝来の文様が慣用されるようになり、一家の文様として定着してゆきました。
その後、武家社会においては、戦地において敵と味方を瞬時に判別する必要から、旗差物などに一族の文様を描くようになりました。一族の団結の象徴でもあるこの文様は、目印としての実際的な意味合いが強くなり、次第に簡略化されて、現在のような家紋の形となっていったのです。
さて、神社における神紋についてですが、この成立に関して幾つかに分けることができます。
まず一つは、神社に縁深き神使や神木などの動植物、祭器具などを表したものが、神紋として用いられる場合で、熊野大社の八咫鳥(やたがらす)や大神神社の神杉を例としてあげることができます。
二つ目は伝説や伝承などに基づくもので、菅原道真を祀る天満宮の梅紋は、道真が生前に梅の花をこよなく愛でたという伝承により、神紋として用いられたものと言われています。
三つ目は家紋から転用されたもので、これは歴史上の人物をお祀りする神社に見られるものです。徳川家康をお祀りする東照宮では、徳川家の家紋である葵紋が、神紋となっています。
この他にも、神紋には神仏習合に関わるものや、天体気象に関するものなど、さまざまな文様が用いられており、人々の篤い信仰と歴史的背景を表す象徴と言うことができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年八月三十日
- 第二五二〇号
稲荷神社の社殿前に設けられている狐が口に銜えているものは、なんでしょうか。それぞれの意味などについても、教えて下さい。
以前(第二五一六号・平成十一年七月二十六日)に狐が稲荷神の神使(神のお使い)となった理由を述べたことがありましたが、稲荷神社の殿内や前などに設けられている狐像については特に触れたことがありませんので、お答えしたい思います。
稲荷社の狐像にはさまざまな形態が見られます。これは稲荷神が氏神の神社や祠に奉祀されていたり、各家の屋敷神として邸内社に祀られるなど、その信仰に多様性があるためといえます。稲荷信仰は稲荷神社の御祭神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が五穀や食物を司る神であるように、農耕神・穀霊神としての御神格が中心となっています。
このため御質問の神使の狐像が口に銜えているものも、穀霊を象徴する玉であったり、稲束を刈る鎌を銜えたものなどを見ることができます。また、穀物を納める米倉の鍵を銜えている狐像もあり、この像からは穀霊神であるのと同様に自家の米倉、つまり家財を守る神、家内安全、家業繁栄の神としての信仰も窺うことができます。
この他、経文や火焔燃え上がる如意宝珠を銜えたり、稲荷神の眷属として仏法具を銜えたりしたものなどを見ることができます。これは、我が国において稲荷神の信仰と仏教が結びついた影響によるもので、具体的には仏教の茶吉尼天(だきにてん)と習合しました。印度における茶吉尼天は、胎蔵蔓茶羅外院南方に位置する鬼神で、六カ月前に人の死を知り、その心臓を取って食らうという恐ろしい女神でしたが、日本ではこの習合により福神化され、狐に乗った稲荷女神の姿が民間に広まりました。
さて、「右と左のどちらの狐像がこうしたものを銜えているか」という御質問もありましたが、狛犬と同様に社殿に向かって右(上座)が口を開いた「阿(あ)」であり、左(下座)が口を閉じた「吽(うん)」で、「阿吽」の対になっている場合は、口を閉じていることからも左の「吽」の方が物を銜えていることが多いようです。このことには諸説ありますが、明確な理由はないようです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年四月十六日
- 第二五九六号
神社に関するこについての数量の呼び方(助数詞)について教えて下さい。
神社に関する助数詞は一般の事物と異なり、神社や神様を敬いて用いられるようになった呼び方があります。
例えば、神宮大麻(神札)や御守りなど神社での授与品を数える際には、単に「…つ」ではなく、「…体(たい)」という助数詞を用います。「一体、二体」と数えますが、この数詞は御神像を数える時にも用いられます。また神輿を数える際には「…基(き)」という呼び方を致します。これは石燈籠や几帳(きちょう)などを数える際に使いますが、他でも据え置くものを数える際に用いられます。
次に神社と御祭神に関する助数詞ですが、神社の場合では「…社」という呼び方が一般的です。神棚の場合、神札を納める場所が一カ所のものを「一社造」と言い、三カ所のものを「三社造」と呼ぶのは、それぞれ独立した社殿であるという考えからであり、この考え方に準ずる呼び方です。
御祭神については「:柱(はしら)」という助数詞を用います。これには古来より神霊の憑依する樹木を御神木として神聖視してきたことや諏訪大社の御柱祭など、木柱をもって神座の位置を定めてきたことなどが理由として考えられます。
この他、『延喜式神名帳』では神社を「:座」という数え方をしております。しかし、相殿(あいどの)神のように一座に二柱以上の神が祀られている場合もあり、必ずしも「柱数」と「座数」は一致しているとは言えません。
英語などと異なり、日本語には数多くの助数詞があります。これは数える事物の性格や状態に従って定められたものであり、神社に関することについても、我々は無意識のうちに使い分けをおこなっているのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年二月二十八日
- 第二五四三号
神社の巫女になるためにはどうしたらよいのでしょうか。
神社の巫女になるためには、神職階位のような資格は特に必要がありません。神前での作法や巫女舞、神道や神社に関する知識全般については、それぞれ奉務先の神社において教育しています。しかし、神職を補助して神明奉仕をおこなうためのしっかりとした心構えが必要になり、勿論、心身共に清浄であり、未婚であるということは基本的な条件です。
こうしたことは古くからの巫女の職掌を考えた場合にも明らかなことと言えます。一般的に巫女と は二種類に大別することができ、一つは神霊や死霊の憑依をうけて、この神意を人々に伝える口寄せ巫女とよばれるもので、東北地方の「いたこ」や沖縄の「のろ」などがあります。世襲であることや師弟関係を結ぶことが必要条件であり、日頃より心身を清浄に保つことは言うまでもありません。同様な女性の宗教的職能者(シャーマン)は世界各地に見られ現在も広く信仰されています。
もう一つは神社巫女と呼ばれるもので、神社で神事に奉仕する巫女を言います。古くは伊勢の神官の斎宮や賀茂神社の斎院、また他の神社でも神楽や湯立神事などをおこなう女性奉仕者がおり、神事に重要な役割を果たしておりました。こうした女性奉仕者は神事のみに専念しており、日常生活も厳しい斎戒が必要でした。
本来、巫女の舞う巫女舞には神霊を招き、神がかりをして神態(かみわざ)を演ずるという呪術的要素が見られましたが、時代とともに変化して、現在のような除災招福や神慮を慰めるための舞いへと変化していきます。しかし、神前近くで神様に奉仕をするということには変わりがありますん。
神社によっては、お正月や祭礼の際に巫女を募集する場合がありますので、それぞれに応じて申し込んでください。その際には、くれぐれも神様に奉仕をするという気持ちを忘れないで下さい。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年三月十三日
- 第二五四五号
神社に奉納する絵馬の由来やその信仰について教えて下さい。
私たちが神社に参拝したとき、祈願の内容を絵馬に記して奉納しますが、これは元々、神々に本物の馬を供えていたことに由来することです。
古くは『常陸国風土記』『続日本記』などに、祈雨止雨、その他の祈願のために生馬を献上していたことが見られ、当時から神々の乗り物として馬が献上されていたことが分かります。
その後、この代用として馬像や、さらに簡略化された絵馬が奉納されるようになりました。
古今東西を問わず、馬は人々の生活に深い繋がりをもっており、我が国においても、輸送や農耕軍要など、あらゆる面で大きな役割を果たしてきました。このことは馬に対する信仰とも結びつき、例えば平安時代に宮中でおこなわれた白馬節会(あおうまのせちえ)は、正月七日に天皇が出御され、白馬を御覧になるという行事ですが、白馬が聖なる「陽」の動物なので、これを見ればその年の邪気を祓うことができると考えられたのです。その後、この行事は各神社においても除災招福の神事として執りおこなわれるようになりました。
こうした信仰は、神の乗り物として献上される馬とも関連することで、特に献上された馬を神馬(しんめ)と呼びました。後世、神輿が神々の乗り物として主に用いられるようになり、馬は供奉するだけとなりましたが、現在でも遷御の際に馬を用いる祭りもあります。
絵馬には本来、馬の絵が描かれましたが、時代や人々の願いとともに、馬以外の絵も描かれるようになりました。その内容は、祭礼の模様や干支、病気平癒や芸能上達の祈願を絵に現したものなどさまざまです。
今でも受験シーズンが近づくと、合格祈願の絵馬が多く奉納されることなど、絵馬は人々の祈りの形を現したものと言うことができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年四月二十四日
- 第二五五一号
神道のお酒や肉食に対する考え方について教えて下さい。
このことは日本人の伝統的な食生活に対する考えと同様であると言うことができます。
お酒については、昔から「御神酒(おみき)のあがらぬ神はなし」と言われてきたように、神事と切っても切れない関係にあります。神事に見られるお酒は単なる嗜好品ではなく、神様にお供えをした御神酒を氏子の人々がお下がりとして戴くことにより、神様と人々はもとより、人と人を結びつける役割を果たしてきました。例えば神前結婚式の三三九度や親族固めの盃など、新たな人間関係を結ぶ人生儀礼にお酒を用いられることからも明らかです。
お酒は、神前にお供えする神饌中にあっても、米から直接造られるため、特に重要なものと考えられ、伊勢の神宮をはじめとする古社においては、境内域に酒殿を設けて神酒を醸造してきました。このように神々とお酒は深い関係がありますが、中でも酒造りに関わる神様として、大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る奈良の大神神社、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る京都の松尾大社、酒解神(さかとけのかみ)・酒解子神(さかとけのみこのかみ)を祀る梅宮神社などが酒造りの神として崇敬されております。
次に肉食についてですが、神饌の品目に鳥や魚があるように、神道では基本的には肉食を禁ずるということはありません。しかし、奈良時代以降に広まった仏教の不殺生という戒律の影響などにより、四足の獣肉の食用が厭われるようになり、神饌からも遠ざけられていきました。しかし、鳥類や兎の食用は続くとともに、山間部においては猪や鹿などが食用とされていました。
このため、諏訪大社御頭祭(おんとうさい)の神饌である鹿肉や、宮崎県・銀鏡神社例祭の猪肉など、神社の由緒により獣肉をお供えする事例も見ることができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年八月十四日
- 第二五六六号
神職の資格や職名について教えて下さい。
現在、神職になるためには資格を必要とします。神職の資格は、浄階・明階・正階・権正階・直階の順に五つあり、神社本庁の試験に合格するか、神職養成機関で必要単位を修得するなどした上で、必要な神務実習を終了しなければなりません。また浄階については、奉仕の経歴や功績などにより授与されます。
これらの階位を取得して各神社に奉務する神職には職階により、宮司・権宮司・禰宜・権禰宜の順に職名が定められております。
宮司とはそのお宮を代表する神職で、祭祀や社務などを主管する立場にあります。また、禰宜とは「祈ぎ(願い)」の語義で、神に祈請する者の意味があります。具体的には、宮司を補助して祭祀や社務をおこなう立場にあり、この禰宜を補佐する役目として権禰宜の職があります。この他、神職の多い神社では、宮司の役目を補佐する権宮司の職が設けられている神社もあります。
また、特別な神社には主典、宮掌のような職がある場合もあります。戦前、伊勢の神宮や官国弊社に設けられ、祭祀や社務に従事をしていた職名で、現在もこの名残などにより設けられています。この他、定員外の神職としての出仕などの職名もあり、その神社独自の職名により奉務することもあります。
神職とは、氏子崇敬者と神々との仲立ちの役割をつとめる重要な立場にあります。ですから資格を取得するのみならず、神職としてのきちんとした心構えなどが大切となってきます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年九月十一日
- 第二五六九号