古老の話1
野菜は福井が1番
昭和に入ってからの野菜づくりはわすれられません。
野菜は、当時札幌市の消費量を、十分まかなえるだけの生産量があり、とりわけ朝市のしゅうにゅうは、たいしたものでした。
わたしは、早くに自動車のめんきょをとり、昭和29年には、先がけて自動車を買い、野菜の運ぱんにずい分使いました。
とにかく、当時、手稲・
福井野小
渡辺吉栄さんのお話「福井のおいたち」より
まっ暗やみにいちごをぶちまけて
手かごに10斤(6キログラム)ずついちごを入れ、前と後ろに4つずつぶらさげて、てんびん棒でかついででかけました。
まだ冷水トンネルのできる前のことでしたから、石ころの多い山道を、月あかりをたよりに行くのですが、ある時、石をふんで足をすべらせてしまいました。48キロものいちごをかついでいたものですから、もののみごところんでしまいました。せっかくつんできたいちごを、そこらじゅうにぶちまけてしまったのです。真夜中のことですから、さあたいへん、どこにいちごがころがっていったのやらさっぱりわからなくなってしまいました。ひろおうとするとふみつぶしてしまうし、なくになけない思いでした。
福井野小
漆崎一郎さんの話
くまうちの話
むかし、福井や西野には、くまやおおかみなどの野生動物がたくさんいました。
昭和27年(1952年)3月、父が、くまうちがどんなにおそろしいものであるかを見せてくれるというので、わたしと弟は、鉄ぽう2丁を持って、えぼし岳(左股おく)に、くまとりについて行きました。父は、23ほどのくまのあなを知っていて、そのうちの1つに、前日のうちに、くまがとび出さないように、さくをめぐらしておきました。父と弟は、鉄ぽうをあなの方へむけてかまえ、わたしは、こぶしぐらいの太さの木で、あなをつつきました。くまは、おこりながら、すごい力で木をはらい落とそうとしました。何回かくり返すと、木は、ぼろぼろになってしまうので、そのぼうを3回ほどとりかえ、父は、11発の玉をうちました。くまはおこって、暗いあなの中で、目をらんらんと赤くかがやかせ、ほのおのような息をはいていました。弟は、おそろしさのあまり、こしをぬかして立てなくなりました。くまが目を光らせ、わたしたちの方にむかって来た時、父は、12発目の玉をくまの頭にうちこみました。くまは、たおれましたが、まだきけんなので、13発目を心ぞうにうちこみ、とどめをさしました。わたしたちが、くまをあなから引き出そうとした時、おくの方に、あのまっ赤にかがやく目が、まだ4つみえました。わたしは、心ぞうが止まるかと思うほどびっくりしました。父は、あなの中に、二股の木をさしこみ、くまの数を調べました。木はすごい勢いでおし返されましたが、2才ぐらいのくまが、2頭いることがわかりました。(くまは、1つのあなの中で、オス・メスの子ぐまが3才になるまで、母ぐまといっしょにくらすという。)わたしは、木の先にがんびをまき、それに火をつけて、子ぐまを前の方へおびき出すことにしました。子ぐまは、火を見ると、おこって、火を消そうと、前の方へ進んで来ました。そこを、父と弟が、鉄ぽうをはなち、しとめました。こうして、その日は、合計3頭のくまをしとめることができました。わたしたちは、とてもうれしかったですが、くまうちは、たいへんおそろしいものだということが、よくわかりました。
福井野小
橋本房太郎さんの話
「普通読本」のこと
当時の小学校では、1年に1度、3月に進級試験というのが行われ、それには、全ほご者が立ち会ったものである。教室の後ろに、ずらりとこしかけがならび、さまざまな顔が、さまざまな表情でつぎつぎに入って来た。この公開試験で、飛び級・進級・停級が決められた。試験の科目に、普通読本(今の国語)があったが、4年生のそれは、特にむずかしそうで、全部漢字で書かれていたように思う。わたしの父は、きびしい人で、毎夕食後必ず、その日に習った所の復習をさせられた。一字でも読めないと、なかなかたいへんだった。そこで、わたしは、漢字の横に、小さくうすくふりがなをつけ、復習をパスすることを覚えた。しかし、これは間もなくたんにんの先生に見つけられ、「わからんければ先生に聞くものである。こんな事を、だれに教わったか。」と大いにしぼられた事があった。その時、高等科へ進むと、どのくらいむずかしくなるのだろうと心配だったが、この年、教科書が全部書きかえられ、漢字よりもかなの多い文ばかりがのるようになった。わたしは以前の二年生てい度の本のように感じたものである。
上手稲小学校 開校57周年誌
同級生「西蔵」のこと
当時、きびしかったけれど、子どもとよく遊んでくれた山岸という先生がおられた。そして、同級生に西蔵とよばれていた力持ちがいた。2人は、毎日すもうをとっていて、3度に1度は、山岸先生が投げとばされていた。おとなになっても、西蔵の大力だった話はいくつもある。じゃりを積んだ馬車がぬかるみにはまりこむと、さっさと馬をはずして、かわりに自分が引っぱりあげたとか、冬道、馬そりが、すれちがいにかち合うと、後ろへまわって、一方のそりを持ちあげて、横へずらしたとか……本当の話である。西蔵氏は、その後どうしたか、消息は不明である。
上手稲小学校
開校75周年誌
かいたくのころのくらし
平和の草分けのひとり坂井三郎右衛門さんの孫にあたる坂井
(一)坂井
おばあちゃんの話だとね、わたくしの父親は、
子ども心にびっくりしたんだが、フトン2人分をせおい、その上に、2さいの子どもをのせて、両手にもてるだけ荷物をぶらさげ、9里(36キロメートル)の山坂を、ひどいくろうで歩いてきたんだと。
小樽に着いたのは、
子どもの時分といっても、8さいまでだったんだが、右股のは田んぼばっかりだったねえ。おばあちゃんたちの話だと、
なにしろ、
田んぼといえばねえ、右股はきふく(でたり、へこんだりした土地のようす)の多い所だから、だんだんばたけのような水田が多かったもんだ。
しゃめん(ななめにかたむいた地面)をクワみたいなものでけずって、モッコに土を入れて運ぶんだが、こうした田んぼをつくるには、1反歩(やく991.7平方メートル)に30円かかったね。よく手伝いに来た人たちに、モッコをゆすられてからかわれ、かたにコブができるし、皮がむけて血がでたもんだ。便利なきかいなんかなかったしね。
農作業は、しょっちゅう、手伝わされたもんだ。
田植えは、5月ころにやったが、当時は”てまがえ”といってきょうはここ、あすはどこといって部落の人が30人くらい集団で、田植えをやったもんで、そうした作業は、15日間くらい続いた。わたくしも竹のカゴを前と後ろに二つつけた天びん(ものをかつぐぼう)で、なえを運ぶのを手伝わされた。学校は営農休暇(農家がいそがしいときに、学校が休みになる。)があったからね。田んぼの虫とりもやったよ。あみの長さが1寸(約3センチ)ちょっとの舟形網というやつで稲をさらっていくと、つつじょうになった葉に入った青虫がとれるんだ。
せなかにどろをしょったドロイムシなんかもいたが、とった虫は石油を入れたかんに入れると死んでしまった。今みたいに、薬の防除作業なんてなかったからねえ。
これは、もっと後になってからの話かもしれんが、右股などでとれた米はおいしくて、“西野米”なんていわれたもんだ。反(10アール)あたり4俵から4俵半しかとれなかったが、出荷(売りに出すこと)すると、米だわらについた米の札をはずされて、秋田や新潟(そのころ日本の中でもおいしい米をつくる地方)の米の札をとりかえたぐらい米の味はよかったんだね。子どものころ食べ物のしゅるいは少なかったが、米のごはんだけは不自由しなかったね。
稲かりだって、一家総出でカマの形をしたノコギリみたいなもんでやったもんさ。とにかく今じゃ考えられないくらいの米どころでした。
そのころ農家は、みんな馬を飼っていた。水田をおこすときに使うし、
はじめ、ためしにつくった米も、右股用水ができたことで、
ところで、右股は、そうとう早くから人が住んでいたらしい。今、わたくしがまつっている
その神さまの中にかかれている文字をかいたのは、最初ににゅうしょくした山口県人の1人、
今は石づくりのお堂になっているが、昔は、たてよこ1メートル、高さが3メートルぐらいの木でできていたものだった。
右股のちいきをいう時には、五天山のことも話さないといけないだろうが、この五天山という名前は、昭和になってからついたものでね。私が子どものころには、そうした名前はなかたったし、何か聞くところでは、頂上はそくりょう(土地をはかる)する時の基点(はじまりのところ)の三角点で、三角山といっていたような気もする。
とにかく、右股は、田んぼばっかりだったが、私が学校に通ったころも、田んぼの中を走って行くような感じでね。まあ、学校のまわりなんかには、カシの木がいっぱいあった。まあ、学校といっても、始めは小学校ではなく、西野教習所といって西野神社の横にあったんだ。私は八歳でそこに通ったんだが、その前、右股には寺小屋学校みたいなものがあって、
さいしょ、3戸だけだった右股だが、その後、どんどんにゅうしょくして、私が生まれたころには、40戸近くにもなっていたというから、子どもも多くなって、学校がひつようになったんでしょう。
学校の建物は木造の平屋で、教室が2つだった。
先生がひとりで子ども20人くらいを教えた。奧の平和の滝の方から通ってきていた子どもたちもいたねえ。勉強は、読み方や算術や
教だんの下でつかまえて、にがしてやったもんだね。
左股は田んぼばっかりだったから、用水路があみの目のようになっていた。右股用水路の本線は、組合でほったんだが、支線は個人個人でほったんだよ。支線は、はばが1メートルもない細いもんだった。水田を新しくつくる時に、それを切りかえする。すると、水のなくなった用水路には、カジカやヤマベ・ザリガニがいっぱいのこって、かんたんにとれたもんだ。
魚といえば、大正に入ってからもこんなことがあった。馬のしっぽの毛を2本ほどちぎって、細い木にまるめてしばると6本になるね。この毛にやなぎの木の虫をしばりつけて川にたらすと一度に6ぴきくらいのカジカがつれた。家ではカジカの身の入った味そ汁をしょっちゅう食べたよ。
あそびといえばそんなもんで、ほかにも木をけずって作ったクイをさして、それをたおすあそび(にっくりあそび)や秋になると、五天山でブドウやコクワをとってあそんだ。
そのころは、登山道なんかはなかった。冬は、あまりあそぶことがすくなかったが、父親がそりを作ってくれてね。それは木をけずったもんで、もつところはブドウのつるでできていた。いなわらで作った「つまご」や「深靴(ふかぐつ)」をはいてたが、当時はふか雪だったから、そんなはきものも役にたたないことがあったね。いしょにあそんだ学校の仲間も16人いたが、今は私ともうひとりになってしまった。
《聞き手は、渡部昌樹さん(株式会社北方編集者)です。
昭和五十三年九月発行のさっぽろ文庫「
(二)佐々木 繁さんの話
佐々木繁さんは、
わたくしのじいさん(佐々木熊吉さん)が
じいさんが入った福井ですが、場所は今の小別沢に行くTの字の所で、そこに10町歩(約10ヘクタール)ほどの土地をもっておったんです。このころは、農業が十分でなかったようです。そのため、人を2~3人おいて、炭を焼かせていたそうです。
年中ひまなんかなかったね。びんぼう人は、ひまがないんだね。夏は水田・畑、冬は炭を焼いていたという生活でした。ウチらは、山に桑畑が2町(約200アール)ほどあって、
がたがた馬車が、やっと歩けるような道路を、炭なら10俵(150キロ)つけて、やっと歩いたといいます。
今の国道あたり(市営バス手稲東停留所)で馬車につみかえ、札幌の町へ出て行くわけです。
炭は黒炭で、かま(炭を焼くしくみ)はおもに福井(左股)の方に10か所くらいありました。かまを持っている人は部落で5~6けんで、1けんの家で2つぐらいもっていました。炭は1回入れると1かまから20俵から30俵できます。
しかし、1か月に2回もつくるとなると人手がたりなくなります。かまをもっていない人は、みな「かまのやき子」などの仕事をしていました。そうやって、夏のこづかいだけをかせぐようにしていました。
食べ物は、畑からどうにかこうにかとれるから、20円から30円ほどあれば、一年くらすことができたので、12月ごろから山に入って、春の4月いっぱいやきました。
年間180~200俵くらい作りました。そのころ、1俵もっていっても、70銭か80銭でした。だから、ひと冬に30円も残す人はえらい方でした。
その30円の金が夏中のこづかいなのです。
それで生活がくるしくて厚別の方とか十勝の方にひっこして行った人がいました。だから、西野でかいたく時代からの人は、15~16人くらいしかいないのでしょうか。
水田や畑は、みんな3町(300アール)を目標にして作ったもんです。
水田が1町5反(150アール)、畑が1町5反ぐらいのわりあいで作りました。
そのころ、
ここら(平和や福井)は
福井や平和や西野の米は、いい米だと評判になっていきました。
また、畑作では、木をきって炭をやいたそのあとの畑に、コテイポ・ササギ・エンドウ(3つとも豆の名まえ)、あま・じょちゅうぎくを植えました。
あまは、新
このあたりは、大きな動物というとクマでしたね。シカはいなかったがキツネはいましたね。キツネにだまされて、学校の先生が2人死んだことがあった。道に迷って、キツネにだまされたわけではないでしょうが、行きだおれになってしまったんだね。
あの時分は、冬は大変だったね。冬になったら、ふぶいちゃって道なんかないんだもの。それでいて山の方に行けば、良い道ついているんだよ。毎日、山ご(山で働く人)が歩いているからね。里の方に行ったら、道なんかないんだもん。どうかすると川につかることがあるんだ。
昔、じいさんは、わたくしが手がつめたいというと「雪でこすれ。」というんだよ。雪をつかんでこすると、手がほとってきてぬくくなるから、手甲(今の手ぶくろ)はいたりすなと、そんなことをいったもんだよ。今から考えると、合理的(理くつにあったこと)な話なんだろうなあ。手ぶくろはいていたら、ロクな仕事はできんものなあ。ところが、炭やきする人は、手ぶくろをはかないから、籠手というものをはいていました。籠手でやらんと、手があれるわけでね。炭をかぶっているから「あかぎれ」ができるんだ。昔、その「あかぎれ」に焼き火ばしをあててジュウジュウやったもんだ。手を見たら、それはひどいもんでした。
福井のおくに、地ごく橋というのがあって、95度の急カーブでした。急な坂になっていて、登ろうにも、馬がいやがって登れん。そうすると後ろまで下がってしまって、ついに沢の中まで馬が落ちてしまいました。それで、馬が死んだかと人がケガしたとかで、昔から人は地ごく橋といったもんです。今は、沢を全部うめてしまったから分かりません。
今、カーブになっている川のふちを、土管や
地ごく橋から向こう(ばんけいの方)は私有地(ひとりひとりのものの土地)で、こちら西野の方は、学田地(役所の土地)だったのです。当時(
それが学田地となり、
北海道にわたって、いつまでたっても、佐々木の熊吉は学田地(ひとの土地)におるかといわれるのがけたくそわるい(はらがたってくやしいこと)から、西野の土地をかいました。北海道にきたら、自分の土地をもちたいのが人情だからね。
わたくしは、
それまで、平和の神社のところに分教場がありました。そこで、ウチのおやじ、学校統合(2~3つの小さな学校をひとつにまとめること)なら、役場に土地を寄付するといったんです。
役場は、「統合する」というので、三反、寄付しました。
それから、その学校で勉強しました。子どものしつけは学校まかせで「学校のいうことを聞いてこい」「学校だけは休むなよ」ときつくいわれたもんです。ウチのおやじは、勉強は名前だけ書ければよいのだといっていたね。へたに、生半可(しっかりわからないのに)に人になんだかんだかとかいてやってさ。ひどいめにあうことがあるからやめれといって、勉強すれといわなかったね。あとは「兄弟けんかするな。仲良くせよ。」というくらいなもんだね。昔の人は、そんなにやかましいことはいわなかったんです。山に行って木の実をとったり、川に入ったりして、よく遊んだものだ。
カジカ・ドジョウ・カニとかヤマベとかをとってね。男の子は陣とり、女の子はあやつきだったね。私が帯をしていたら、さいてしまうので、おふくろはやりきれないものだから、真田帯(ひらたくあんだもめんのおび)を買ってくれたもんです。
《聞き手:阿部敏夫さん(北海道みんぞく文化研究会会長)》
昔の生活
人々は、「明るくなってもねているのはもったいない。」と言って、夜が明ける前の暗いうちから起きて仕事を始めました。起きるとすぐに、男の人は馬の世話をし、田畑に出かけて野良仕事をします。女の人は、せんたくやすい事にとりかかります。朝市の開かれている時期は、夜中の1時2時に起きたものでした。
円山朝市
ひと仕事終えてから朝食です。主食は、わずかな米に、だいず・とうきび・あわなどをまぜたもので、おかずは、できるだけ買わないで、自分の家でとれた大根やたいなのつけものとみそしるでした。みそしるのみも、畑でとれたにらや、なっ葉でしたし、みそも自家製でした。大根の葉もすてないで、ゆでてからかわかして、とっておきました。冬のみそしるに入れるためです。こうして、自分たちの手でまかなったのです。
6時ごろに朝食が終わると、さっそく、田や畑に出かけます。力仕事をしておなかがへるので、9時か10時ごろには、「小昼」といっておやつを食べます。
昼食は、家の近くで働いていた時は、家にもどって食べますし、遠くで働いていた時は、ごはんの入っているおはちを、そのまま持って行って畑で食べました。おかずは、すしにしんやつけものです。
食べた後は、1時間ほどごろねをして体を休めます。
それからは、「手もとの見えるうちは働く。」と言って、暗くなるまでいっしょうけんめい働きました。暗くなって、やっと田畑の仕事をおしまいにします。その後で、馬のえさのために、田畑のふちの草をかるのです。そして、かりとった草を馬の背に積んで、暗くなった道をとぼとぼともどるのです。
それから夕食です。
夕食が終わった後、もうひとしごとするのです。暗くなってもできることは、昼間はやらずに残しておくのです。そして、うす暗いランプの明かりや月の光のもとで、明日の朝市に出す作物のより分けや箱づめをします。
冬になると、男は、なわないや、むしろ作り、わらじ作りをしました。女は、はり仕事に粉ひき、まめよりなどをするのです。
こうして、昼間のつかれをがまんしながら、夜おそくまでしごとをしてからとこにつくのでした。
そのころの家は、まだそまつなものでしたから、寒さのきびしい日には、朝起きてみると、息がこおって、ふとんの上がまっ白になっていたということです。それをかわかすのが、女の人や子どもたちの仕事でもありました。
自然に生えている桑を利用してかいこをかったりもしました。幼虫の葉を食べる音が、まるで雨が葉にあたった時の音のようにザワザワと聞こえたというほどでしたから、とてもさかんだったようです。しかし、苦労が多いわりにしゅう入が少ないので、
このころになりますと、堀立小屋から土台つきの家にだんだんと建て変わってきます。建てられた家の中には、遠くはなれたふるさとをなつかしんで、
だんぼうは、まだ、いろりが使われていました。ストーブが広く使われるようになったのは、昭和の初めごろからだそうです。
そして、だんだんとランプも使われるようになってきました。ランプは、しんの太さによって明るさが決まります。しんの太さは、2分、3分、5分とあり、5分しんだととても明るいのですが、油のなくなる量も早いので、たいていの家庭では2分しんのランプを使っていました。ほやというランプのガラスの部分は、すぐにすすだらけになり、毎日そうじをしなければなりません。ほやそうじは、手の小さい子どもの仕事と決まっていました。
ランプから電気へ
1合は、1.8デシリットル。 4合で、7.2デシリットル。
1分は、3ミリメートル。 2分だと、六ミリ。 3分だと、9ミリ。
5分だと、1センチ5ミリメートル
電気の明かりがついたのは、ずっと後の昭和17年(1942年)でした。電気の明かりにするために、部落の人みんなが出て、電柱のあなをほったり電柱を運んだり、たいへんな苦労をしたそうです。苦労をした末に、ようやく電気の明かりがついた時は、明るくて明るくてとても感げきしたということです。
飲み水は、ほとんどの家庭で川から引いた用水の水を使いました。朝早くくんで、台所の大きなかめにためておいて使いました。ですから、水はとてもだいじに使いました。また、ほり井戸のある家もあったそうです。
おふろは、みきが太くてまん中がくさった、かつらなどの木から作りました。大木をてきとうな長さに切り、中をくりぬき、底にてっぱんをはりました。夏の間は、川の近くに置いて、わかしました。また、「ごえもんぶろ」という鉄なべの大きくしたものをふろにして入っていた家もありました。夏は、毎日。冬は、5日~1週間に1ぺんぐらいのわり合いで入り、あせを流しました。
このころの便所は、どうなっていたのでしょうか。
便所は、たいてい家の中にひとつ、外の納屋にもうひとつ、というふうに2つぐらい用意されていました。おけを土の中にうめこみ、丸太を半分に切ってわたし、そこに足をおいて用をたしました。ですから、とても不安定でこまったということです。入口は戸ではなく、むしろを1まい下げておくだけだそうです。紙は使わず、ふきの葉を取って来てためておき、それを使ったりしました。便所のおけが半分以上になると、それを肥料として使いました。
ほとんどの家では、犬やねこを数ひきずつかっていました。犬は、はなしがいです。ねこは、大切な米などを食べるねずみ退治のためなどに、かっていました。
にわとりも、はなしがいで、庭の周りにかっていました。鳥小屋の中に入れておいても、いたちが、にわとりをおそうので、かえって、はなしがいにしておいたほうがよかったのです。庭先に木を横にわたしてにわとりがとまれるようにしていました。見えない草かげなどでたまごを生み、ひなに、かえした親鳥が何わもの、ひなをつれて出てくるということもよくあったそうです。
このころの服そうは、もめんのぬのを、さしこに仕上げたものや、島田の着物にうんさいのもんぺ、そして、さなだひもといういでたちが多かったようです。
冬は、ネルのシャツにわた入れのそでなし、それに、ももひきをはいたり、乗馬ズボンにゲートルをまいたりしました。
外出する時は、夏は、わらぞうりやとうきびぞうり、冬は、わらぞうりにぬのをはりつけた、ぼっこぐつやつまご、深ぐつをはき、女の人は、おこそずきんをかぶり、角まきをはおりました。
和服からしだいに洋服へと変わっていったのは、昭和になってからです。
さしこ(刺し子) | 布を重ね合わせて、それを1針ずつ細かく縫ったもの。大変丈夫で、消防服や |
うんさい(雲斎服) | 布地を荒く斜めに織った布。足袋(たび)の底などに使われる。 |
ネル(フランネルの略) | 毛糸で荒く織った柔らかい織物。 |
ゲートル | 布または革製で、足首からふくらはぎまでまき上げておおうもの。 |
おこそずきん | 目の部分だけ出し、頭や顔などを包むもの。主に婦人が防寒用につける。 |
角まき | 毛糸の肩掛け。大型で四角。婦人が主につかった。 |
札幌市立福井野小学校郷土誌「福井野に生きる」3訂版より転載
昔と今の思い出
私は
第1に、新しい本と4つ折の石板を入れた、母親が綿でで作ってくれたカバンをかたにかけて、祖母に連れられて小学校1年生に入学した時のことは、今でも思い出します。平屋建ての4教室で勉強をならったものです。書くものは石筆です。3年生より習字をならいました。1番楽しかったのは、なんといっても運動会です。場所は今の校庭で行いました。
母親とともに、また友だちと行った時のことを思い出します。今のスタートは「用意 ドン」ですが、昔は「ガッテン、ショウー、ドン。」で、りょうじゅうを打って走りました。その時は何よりてっぽうの音がおそろしかったものです。
はき物は、夏はぞうり、げた、冬はわらでつくった深ぐつ、ツマゴでした。げこうの時はツマゴがゴツゴツにしばれているのをたたいてはいたことが、今さらながらよくはいたものだと思い出します。
それから、卒業式もまた格別でした。 今は洋服に、長ぐつですが、昔はしまのハカマに、カスリの羽織をきて学校に行きました。これがなによりもうれしかったものです。そつぎょうしょうしょを家に持って帰るのが、なんともいえない思い出です。そのころの生徒数は100人ほどで、1つの教室に6年生と2年生で、1人の先生がうけもちました。篠原校長先生に教えていただいたことが、今でもためになっております。実に先生が、なつかしいです。
私たちが卒業したのは大正6年ですが、そつぎょうするとすぐ西野青年団ににゅうだんさせられたものです。男は15才になり入団しないと、なかまはずれになり、にゅうだんすると夜学にかよい、月に2回はかいごうがあり、弁論、講習にかよったのです。
西野地区は土地はあまりよくないが、水田と野菜をつくる農家が多いので、せんごは1時、くるしかったが、しょくりょうにはさほどではありませんでした。
その頃の作さぎょうはすべて馬により、仕事やうんぱんをおこないました。今の農家は
次に、交通ですが、はじめて西野二股まで札幌市営バスが昭和30年ころに通りましたが、乗る人が少ないのであかじろせんといわれていました。
今では地下鉄
手稲東小 大正6年第22回卒業生
小畑 藤五郎
40数年の思い出
大正14年に入学、昭和5年に6年を卒業したが、その頃をふりかえると、自然の中で自然に育ったというきおくしかない。
ただ6年生の時は、中学にじゅけんというので、おんし板垣先生には悪いが、残されて少し勉強したこともあるが、美しく、そぼくなかんきょうの中で、ひとりでに育ったようだ。
でも、友だちのたいはんは、学年が進むにつれ、家の手伝い、子守りなどで、なかなか大変だったようだ。赤ん坊を背負って登校していた者もいた。
思いつくままに書きなぐってみる。
遊びにほうけた七夕の頃
学校のある時でも、そく遊んでばかりいたが、夏休みでかいほうされた時は、またかくべつ。七夕の数日前に、南方みんぞくの水上かおくのように、あしばで、やぐらをくみ、むしろをはりめぐらし、友だち数名とともにとまりこむ。
清ちゃんとこのおばばが、ささげのにつけをもって来てくれたこともある。そして日中ともなれば佐々木金松さんのうらの川原で、ちんちんまるだしで、水泳ぎ。
ざりがにや、どじょうをとってやいてたべる。
疲れたらまた、やぐらに帰り、よくじつもまた川原へ。
こんなことのくり返しをいく日かやる。勉強も何も忘れ、遊びにほうけたものだ。
氷池でのいかだのり
てんねん氷をとるために、氷池があった。かんそうを防ぐために水がはってあり、水をひく水路のふたにする、スノコいたがたくさんある。われわれは、さっそく、いかだをつくり、よく遊んだ。ある時、前鼻一郎君が、赤ん坊を背おって、このいかだにのった。
板を重ねてあるだけで、別にしばってもなかったので、端にのると沈むことがある。一郎はうっかりして赤ん坊を背おったままその端に立ったからたまらない。あおむけに水の中にどぶん。小高い所で畠仕事していた一郎君のおかあさん。「いちろう」と大声でとんでくる。一郎君はどんどん逃げる。
枯れたよもぎとりや、グランドの石拾い
当時の学校は、今から見れば、バラック建てのようであり、冬などは吹雪のふきこむのをとめるため、窓のすき間を新聞紙などをはって、がまんしていたものだ。
大正11年
教育のための予算が少なかったのだろう。
そのためか、秋になると、ストーブのたきつけにする、枯れたよもぎとりに使われたものだ。行く時は遠足のようなつもりで出かけるが、帰りが大変。
私は小さかったせいもあるが、長いよもぎを、両手で胸のところにかかえて学校まで帰るのがとてもつらかった。
つらいというか、いやだったのは、運動会間近になると、グランドの石拾い。
当時のグランドは、元のプールや教員住宅のある所、
十勝石などもずい分、見つかったがどうしてだったんだろう。
馬の背のような冬道、自作のスキー
冬の道にも思い出が多い。ばそりのあとがしだいに高くなり、道の真ん中だけが高く木材出し、石出しの馬にでも合うと、横のやわらかい所によけ、ずいぶんとぬかる。
そういえば、冬は木材、石のうんぱんがものすごく多かった。
木材などは、直径2メートルもあるようなもの、庭石も、ばちばちをふた組も使うような大きなもの、そして馬も2頭びきで、引っぱってたのもしばしば見た。
こんなばそりの列が長くつづき、しかも道路は馬の背じょうたい、ちょっとしたかげんでひっくりかえる。馬追い達が手伝い、馬主は何とかして早く起こして行こうと馬をぎょしゃ綱で打つ、棒でたたく。幼な心にも馬はかわいそうだと考え、今も記憶に残っている。
この頃、スキーはふきゅうもしてなくて、買ってもらえぬものと考えていた。友だちの何人かが、木をけずり、お湯でまげ、針金、鉄板で金具をつくり、はいていたのを見たがうらやましかった。私の場合は小さいのにおやじが古物屋から、いたやの6尺くらいのスキーを与えられ、それでも、それをひきずってジャンプ大会に行ったこともあった。
手稲東小 昭和5年 第35回卒業生
元手稲東小学校長 久守 寿晴
国民学校のころ
昭和16年4月1日 曇り空の中、グチャグチャのどろみちを歩いて上手稲国民学校(今の手稲東小学校)に入学したわたしたちは、その日の天候があんじしているような、きびしい小学校生活でした。
1年生に入ったばかりのころは、もう服やくつは自由にかうことが出来なくなっていました。お金のほかにチケットがいるのです。そのチケットは一家庭に何枚というわり当てがあって好きなだけ買うことはできないのです。ですからツギのあたったズボンや服を着ているのは当たり前でした。
お菓子屋さんにも、お菓子などほとんどなく、あめやキャラメルがわずかあるだけでした。
やぶれた服をぬう糸さえ、なくなってしまったのです。
冬になると、長ぐつがないので、稲のわらで作った長ぐつ(ふかぐつ)をはいて学校に来る友だちがふえました。そしてうわぐつがないので、すあしに、わらぞうりという友だちもいました。今ですと、とても考えられないことです。
何よりもたいへんだったのは、
わたしたち手稲東のはんは、デントコーン(牛のえさ)の草取りをしたのですが、芽を出したばかりで、どれがドントコーンなのか分からず、雑草のツユクサがトウキビの葉ににているので、ツユクサを残してデントコーンをけずってしまって、しかられたことも今も心にのこっております。
わたしたちが、こうがくねんになったころは、お菓子どころか、お米も足りなくなってしまいました。油を取ったあとの大豆かす、でんぷんかすなどが、はいきゅうになりました。
食べ物さえない時代ですからもちろん学用品も不足しています。きょうかしょは、ぜんぶおさがりで、自分の使ったきょうかしょは一年下へ、そして1年上の学年から自分の使う、きょうかしょがきます。ボロボロになったきょうかしょです。
ノートはしんぶんしよりもっと黒く、木のくずがはいっていて、そのうえ鉛筆が悪いので、ひっかかってやぶれてしまいます。消しゴムなどは消せないゴムでした。けっきょく指をなめって、こすった方が消しゴムを使うよりきえたようです。
それに、男の先生はつぎつぎとせんそに、かりだされたので、あまり勉強もできませんでした。ツギの上にツギのあたった服を着たわたしたちは、それでも友だちと元気にはねまわっていました。おもちゃや運動の道具ありません。遊びたければ自分で作るしかありません。木をけずってこまを作ったり、こわれたかさの骨を使ってたこを作ったり。ぬい針をまげて釣り針を作って母に叱られたりしながら
つかまえたうぐいを、たき火でやいて食べたら、とてもどろくさくて食べにくいものでした。でも、きれいな水の流れる
苦しい生活の中でも楽しい思い出があるのは、友だちがたくさんいたからだと思います。けんかもしたり、いじめられもしたのですが、上級生も下級生も一緒になって遊びました。
ないないづくしの、小学校生活でしたが、友だちと一緒に山ぶどうやこくわを食べたり、イタヤカエデの枝をおって、じゅえきでできた、つららをアイスキャンデーのように食べたりしたものです。
話はかわりますが、わたしたちが小学生のころは、札幌市西区手稲東とか西野ではなく札幌郡手稲村字○○でした。
村ですから、人口も今よりずっとずっと少なかったので、道路ぞいにポツンポツンと家があるだけでした。ですから国道から学校までの道路ぞいには15~16軒ぐらいで、少し奥まった家を入れても20軒くらいの家しか無かったと思います。
とにかくたんぼの中にポツンポツンと家があるのですから、遠足でいく平和の滝・小別沢トンネルの道すじも、どこに誰の家があるのか大体分かっていました。
水筒も買えない時代で、遠足の時は、びんに水をつめて行きます。ガラスですからすぐ割れてしまいます。けっきょく「○○についたらわき水があるから、あそこで水を飲むべ。」水筒なんかいらない遠足でした。家だけでなく、そんな場所まで覚えていました。
木造でしたが、手稲東・西野にかけて1番大きくて1番りっぱなたてものは学校でした。まえにわは、今よりずっと広く、きれいなおんしつがあって花がさきみだれ、木がたくさん繁っていました。
昭和20年初夏、とうとう手稲本町にもばくだんが落とされました。小さなばくだんだったそうですが、手稲東でもズシンとゆれました。ひこうきがとびさってから外へでて見ますと、手稲駅(当時は軽川駅)の方角から真っ黒い煙が空高くのぼっていました。
石狩町の方では、
神の国であったはずの日本が
でも、ざぶとんのようなぼうくうずきんを、かぶらなくてもよくなっただけでも、うれしかったものです。
手稲東小 昭和22年 第52回卒業生
前鼻 政義