小学校
手稲東小学校
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時習館(開拓 当時) -
明治 42年にできた校舎
このころの道は原野の中のふみつけた道で、森の中は左右にまがりくねって、沢があったり、しっちだったり、くまの通り道だったり子どもがひとりで学校に行くのはたいへんでした。
でも、
さらに学校にも、
大正時代 大正6年(1917年)4月1日に高等科ができ上手稲
出席率も、農家の家庭が多かったので、手伝いで休みが多く、あまりよくありませんでした。そのため、休みすぎで進級できない子もたくさんいました。
教科書は全国同じものをつかっていました。教科は
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昭和はじめごろの校舎 -
昭和9年にできた校舎
昭和時代 昭和6年ごろから天候ふじゅん、世界的けいざいふきょう、
太平洋
昭和16年(1941年)太平洋
戦後 第二次世界大戦は昭和20年(1945年)8月15日に終わりましたが、国民の多くは精神的に混乱ました。古い伝統にささえられた、いままでの日本の教育は新しい教育のしくみを作ることがひつようになりました。
戦時中の「国のため」という考えや
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昭和53年にできた現校舎 -
手稲東小校章
昭和22年(1947年)11月3日、日本の憲法が新しく作られ、「ぜったいに
昭和22年(1951年)手稲中学校上手稲分校(3学級)が併置され昭和27年(1952年)手稲町立上手稲中学校、手稲町立手稲東小学校と名前を変え昭和37年(1962年)現在の地に移転しました。昭和42年(1976年)札幌市立手稲東小学校となる。
- 教育目標
- 1.明るい子 美にあこがれおもいやりあふれる明るい子ども
- 2.考える子 進んで学び相違を生かして考える子ども
- 3.ねばり強い子 健康で気力に満ちたねばり強い子ども
校章のこころ
中央に、校名にある「東」と「小」、たくさんとれた手稲の米の「
厳しい北国の自然にも負けずに、一生懸命
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札幌市立手稲東小学校(公式ページ) |
西野小学校
昭和47年(1972年)人口が急にふえたため手稲東小学校の子どもがどんどんふえ教室が不足してきました。とくに、に西野や平和、福井地区から手稲東小学校にかよう子どもの中には家が遠いためバスでかよわなければならない子どもが大勢いました。
西野地区の人たちは、自分たちの地区に学校をと願い、西野小学校が開校しました。当時の児童数は810人で学級数は19でした。初めは体育館やグランドがなく、体育や遊びに不自由な思いをしていました。開校式も玄関でおこないました。ところが、次の年には児童数が1000人を超え、昭和50年(1975年)には1700人にもなってしまいました。この年一番の多かったのは、1923人でした。一つの学校に学校2つぶんの児童が通っていたいたことになります。開校した次の年から教室が不足し、プレハブ教室が8つもできました。プレハブ教室は夏は暑く冬はストーブをたいても寒いというそまつなものでした。西野地区の
教育目標
豊かな人間性を持つ主体的な人間の育成
1.健康な体
2.高い知性
3.豊かな
4.強い意志
校章のこころ
柔らかい三角形の全体形は、西野の右股左股の両
三方を指す(西)は西野の西を現し、↑(矢印)は限りなく伸びる可能性を持つ子どもへの願いをあらわす。西の角形の字は、意志の強い人間にと願う心情を表現した。
小は西野小の小を現し、円形は円い心と豊かな人間性をもつ子どもにとの願いをこめたまのである。
六方に広がる図形は、校歌にも歌われている希望の光を表現したもので子どもにかける夢を表現したものである。
西野小学校校章
西野音頭 | |
作詞・作曲 西野小児童会 西野小職員 | |
1、 | 手稲の山に 囲まれて(囲まれて) 元気いっぱい 西野っ子(西野っ子 ) 汗を流して かけまわり はだしで 木のぼり 川あそび ※(みんなで みんなで 西野音頭を おどろうよ) |
2、 | 発寒川は 輝いて(輝いて) やさしさいっぱい 西野っ子(西野っ子) 心と心が ふれあって 虹の仲間の 大きな輪 ※(繰り返し) |
3、 | タイムマシンに とびのって(とびのって) 夢がいっぱい 西野っ子(西野っ子) 明るい未来を つくろうよ 宇宙に とびだせ レッツゴウ ※(繰り返し) |
西野小20周年の折に製作 |
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札幌市立西野小学校(公式ページ) |
西野第2小学校
昭和51年(1976年)3月、西野第2小学校が開校しました。
そのころ福井地区から通う子は家から学校まで遠く歩いて通うことがたいへんだったので、バスで通う子が多かったそうです。はげしい児童の増加とプレハブ教室での不自由な授業を心配したPTAの人たちや役所は、西野地区の中でも人のふえ方がはげしかった西野第2地区に学校を建てようと、いろいろ努力し、その努力が実ったわけです。
西野小学校から773人の児童がうつり、21学級の学校でした。西野小学校の児童数は1300人へり、ようやくおちついて勉強できるようになりました。
校名は昭和50年夏に、母体校である西野小学校の家庭全体にアンケートちょうさして「学田」「西野西」「広島通り」などの校名があげられましたが、その中で1番多かった「西野第2」がつかわれるようになりました。そして昭和50年9月1日に正式にけっていしました。
教育目標
強く明るい子
よく考える子
たすけあう子
校章のこころ
緑に囲まれた、すばらしい
西野第2小学校校章
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札幌市立西野第二小学校(公式ページ) |
福井野小学校
福井地区にも都市化の波がおしよせ、苦労して作り上げてきた田畑がどんどん
昭和54年3月、五天山のふもとに4階建ての近代的な校舎がたち、西野小学校から539人の子どもがうつりました。
ふるさとの
教育目標
未来を開き、豊かな心を持つ子
- 生命を
尊重 し人間的優しさを持つ子どもの育成 - 困難に立ち向かっていく強い心と体を持つ子どもの育成
- 働く知性と豊かな
情操 を持つ子どもの育成 - 心を開き合いいつまでも続く確かな友情を持つ子どもの育成
校章のこころ
制定 昭和53年11月1日
デザイン 阿波昭三(初代校長)
全体の菱形は、希望の指針としての北極星を形どり、福の字を中心にして調和のある人間性と、その発展を願ったものである。
- 中心の福、中央の井形と、菱形の底辺で福井野の校名を表している。
- 4つの辺は、野の広がりと子供の希望の広がりを表している。
- 4つのペンは、学校教育目標と子供の創造的な意欲の発展をめざす。
福井野小学校校章
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札幌市立福井野小学校(公式ページ) |
平和小学校
平和小学校も他校と同じように平和地区の人口ぞうかにより小学校の必要を願い、昭和58年(1983年)11月に校名が「札幌市立平和小学校」ときまりました。この校名は
昭和59年西野小学校から560名、西野第2小学校から2名の児童をむかえ開校しました。
昭和14年1月23日現在児童数は451名学級数は13学級となっています。
校章のこころ
この地域は、
校章全体は円形を基本にして、
4つの
中央の校名を囲む輪は、地域に根ざした学校として、地域、父母、子供たちみんなが一体(輪)となり、協力し合い、ともに限りなく栄えることを願っています。
4つの
平和小学校校章
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札幌市立平和小学校(公式ページ) |