円山学田
円山学田のおこり
明治の初め、かくちで開こんがはじまり、入植する人がふえると、子どもたちの教育のために学校をつくりました。
しかし学校を作っても、これを維持していくお金も少なく、開拓使から月3円の補助金がありましたが、明治15年から補助金がはいしになって、すべて親のふたんとなってしまいました。
そればかりか、いままでは、読み書きのじょうずなひとが先生となって教えていましたが、これからは、月給7円以上の正式な先生を置かなければならなくなり、親たちは、毎年100円以上のふたんをしなければ、学校はなくなってしまいます。当時の100円といえば、農家にとって、おどろくほど、高い金額でしたから、とてもはらえません。学校が無くなってもしかたがないと、あきらめていると、上田善七という人が「100円はらうのをおしんで、村中の子どもが読み書きできない子どもになって幸せですか。いま100円出して子どもたちに読み書きを教えることは将来の宝をつくることなんですよ。そのための積み立てと同じじゃないですか」と親たちをせっとくしました。
しかしなんとか親たちのふたんを少なくしようと、学校で土地をもって、その土地を貸したお金で学校をまもろうと考えました。その土地のことを学田地といいます。
そこで10数名がだいひょうとなって、役所におねがいのに行き、明治17年(1884年)2月、30万坪(九十九万平方メートル)の土地をもらうことができました。
開こんのために、まず、炭やきをする人を入植させました。一つの炭やき窯で、一ヶ月10円で炭をやかせ、3年目には200円のちょきんができるほどになりました。
後にこの土地は、自分でたがやした分だけその土地を買うことができるようになりました。
円山学田記念碑は、上田善七さんのこうせきをたたえて建てられたものです。
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円山学田・見取り図
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円山学田記念碑