その他2
- 神事に奉仕する人の名称について教えて下さい。
- 祭りの後におこなわれる直会(なおらい)の意味についれ教えて下さい。
- 御神前の真榊や上棟祭の吹き流しに用いられる五色布の色の意味について教えて下さい。
- 神事に関わる占いやおみくじの起源などについて教えて下さい。
- お正月の縁起物である破魔矢の由緒や飾り方などについて教えて下さい。
- 神社本庁の歴史的沿革や役割などについて教えて下さい。
- 埼玉県在住の者ですが、県内に氷川神社が多いのはなぜでしょうか。その理由や信仰について教えて下さい。
- 白旗神社の分布とその起源などについて教えて下さい。
- 三種の神器とはどのようなものですか、教えて下さい。
- 地域により三社詣や五社詣と称して複数の神社を巡拝する慣習がありますが、どのような意味を持つものなのでしょうか。
- 陰陽師と神職とは同じと考えていいのでしょうか。
- 神社の神紋には「三巴(みつどもえ)」が多いようですが、これの意味などについて教えて下さい。
- 戦国時代、百二十年余り途絶えた伊勢の神宮の式年遷宮を再興した慶光院上人について教えて下さい。
- 幣帛料と幣饌料について教えて下さい。
- 地鎮祭でお供えする鎮物(しづめもの)について教えて下さい。
- 日章旗の旗竿上部の玉と旗竿の白黒模様の意味や、神道との関わりについて教えて下さい。
- 御神前へのお供えに用いる祭器具について教えて下さい。
- 玄関に飾るお正月飾りの意味などについて教えて下さい。
- 神社で厄払いなどの御祈祷を受ける際、「数え年」の年齢を聞かれますが、なぜなのでしょうか。
- 社殿などに貼られている千社札の意味について教えて下さい
- 教派神道について教えて下さい。
- 家屋を新築する際などに問われる家相について教えて下さい。
神事に奉仕する人の名称について教えて下さい。
神社において神事に奉仕する人の総称として、現在、神職・神主という名称が一般的に用いられますが、他にも神宮、祝部(はふりべ)、大夫(たいふ・たゆう)といった呼称も用いられる例があります。
神主という名称は、文字通り「神に仕える主」ということで、その神社の主となる神職を指す語ですが、現在では神職の総称としては使われております。また、神官は、明治初期には官国弊社以外の神社に奉仕する神職の総称として用いられました。官とは国家の官吏であることを示したもので、その後、伊勢の神宮の神職のみに用いられるようになった名称です。
この他、祝部については、単に祝(はふり)とも称されることもあります。禰宜祝部ともいわれるように、本来は禰宜を補佐して祭祀に奉仕する神職の階位を指した呼称でしたが、それを神職一般を示す語となったものです。また、大夫とは五位の位階をもつ官人の通称として用いられたもので、神職については、伊勢の神宮の祀官に対して古くから用いられました。後には「禰宜の大夫」や「神主の大夫」という呼称などでも呼ばれ、他の神社でも祭祀に奉仕する神職の名称ともなりました。
地方の神社によっては専任の神職が奉仕するのではなく、氏子の中から神事を担当するものを選んで、一定期間の奉仕をする頭屋(とうや)制をおこなっている所もあります。奉仕に当たるものを頭(当)屋(家)・頭人などといい、奉仕期間より俗に一年神主と呼ぶこともあります。
神事の複雑化などにより、氏子のみでの祭祀執行が難しくなったため、頭屋が専任神職の補佐をおこなう役割になったなどの変化は見られますが、こうした頭屋などの制度・名称自体が、神社において古くからおこなわれてきた神事奉仕の一つの形を現しているということができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年九月二十五日
- 第二五七一号
祭りの後におこなわれる直会(なおらい)の意味についれ教えて下さい。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒を、神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。
古来より、お供えして神々がお召し上がりになられたお供え物を人々が戴くことは、その妙なる恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると考えられてきました。この供食により神と人が一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。
簡略化されたものとして、お酒を戴くことが一般的な儀礼となっていますが、これは御酒が神饌の中でも米から造られる重要な品目であり、また調理をせづにその場で直接戴くことができるため、象徴的におこなうものとなりました。
神々にお供えした物を下げて戴くということは、天皇陛下にあらせられましても、毎年の新嘗祭の際に、親しく新穀を神々に捧げ、また御自らも聞こし召されるという儀礼に見ることができ、「神人共食」という祭りの根本的意義が示されています。
直会の語源は、「なおりあい」とする説があります。神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄に努めるなど、斎戒を致します。神社本庁の斎戒に関する規程には「斎戒中は、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならない」とあるよう、通常の生活とは異なるさまざまな制約があり、祭りの準備から祭典を経て、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎」となり、もとの生活に戻ります。「なおらい」の語源は、「戻る=直る」の関係を示して直会の役割を述べたものであり、直会が祭典の一部であることを指しています。
直会が神事として一般の宴とは異なるのも、こうした意義をもっておこなわれているからなのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年十一月二十七日
- 第二五七九号
御神前の真榊や上棟祭の吹き流しに用いられる五色布の色の意味について教えて下さい。
五色の布は、御神前の威儀具として設けられる真榊や、上棟祭の折、屋根の上に付けられる吹き流し、また、神輿渡御の行列の五色旗などさまざまなものに用いられています。
古くは『延喜式』に神前に供える幣物として「五色幣の料の絹」「五色の帛」「五色物」とあり、五色の幣帛が祭料として欠かせぬものであったことが窺えます。これは今日でも変わらず、宮中から勅祭社に奉献される幣帛は五色の布帛であり、神前に供える御幣も白色の他、五色のものが用いられています。
この五色とは、古代中国に成立した五行説(ごぎょうせつ)に基づくもので、我が国にも受容されました。この説は宇宙間の森羅万象を、五元素である「木・火・土・金水」の行い(作用)により具象化されたものとして捉えます。この五元素は、色彩の他、方位や季節、時間、十干、十二支、惑星、内蔵、人間精神などさまざまな事象に当てはめられています。ですから五色は天地万物を組成している五つの要素の象徴であり、宇宙そのものを表したものということができます。
具体的に「木・火土・金・水」を色彩で表すと、「青・赤・黄・白・黒」の順序となり、方位では「東・南・中央・西・北」を示すので、「土=黄=中央」が最も尊貴であるとも考えられています。また、神社の殿内装飾として用いられる四神旗(しじんき)に描かれている四方位の霊獣も、それぞれ五行に配されており、貴き中央を除き、「東=青龍」「南=朱雀」「西=白虎」「北=玄武」となっています。
現在、真榊や五色旗に用いられている五色布は、真榊の場合は両端より中心に向かって、緑(青の代用)・黄・赤・白・紫(黒の代用)の色の順序に、上棟祭の吹き流しで一列に並べる場合は、東方より緑・黄・赤・白・紫の順に並べるのが通例となっており、色や順序が多少異なりますが、意味には相違がないことと思われます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年十二月十一日
- 第二五八一号
神事に関わる占いやおみくじの起源などについて教えて下さい。
神慮を伺う占いの起源は、古代にまでに遡ることができ、その一つに亀の甲羅を火で炙り、そのひび割れ方を以て占う亀ト(きぼく)があります。律令制下においては、神事をつかさどる神祇官の中で亀トに熟達した卜部(うらべ)が官職として置かれたり、現在でも大嘗祭で斎田を選ぶ、国郡卜定に際しておこなわれています。
また、人の正悪・是非を判断するため、熱湯に手を入れて神意を伺う盟神深湯(くがたち)は、今も神社でおこなわれている湯立神事の元であるともいわれているように、占いは神事と密接な関係があります。
おみくじは、こうした占いの一つであり、吉凶禍福・勝敗・当落・順番を占い、物事を選定する方法として広く用いられます。例えば、氏子の中から一定期間、神社で奉仕をおこなう頭屋を選ぶ際に、神前でくじを取って、神慮に適った神役を選ぶことなど、神事とも深い関わりが見られます。
その起源は古く、『日本書紀』斉明天皇四年の条には、有間皇子が短籍(ひねりぶみ)を取って、謀反の吉凶を占ったとあり、紙片か木簡で作ったくじにより占いをおこなったことが窺えます。この他、特に神前でおこなわれた事例は、『増鏡』三神山の条で、仁治三年(一二四二)の四条天皇崩御の際、執権北条泰時が鶴岡八幡宮若宮社でくじを取り、後継の天子を定めたことが記されています。
語源もくじの形態から「串」であるとする説や、訴訟や揉め事などを公正に判断するという「公事」より付いたとする諸説が見られ、漢字も「籤」という字の他、亀トを起源とする説から「鬮」という字が充てられたり、「孔子」という字も用いられたりしました。
現在、神社におかれているおみくじは、個人の運勢を占うことが中心であり、今のような形のものが見られるようになったのは江戸時代に入ってからといわれております。神社によって、御祭神が詠んだ和歌を載せたりするなど特色のあるおみくじが置かれ、人々の篤い信仰を集めています。
しかし、中には江戸時代に庶民の間で流行し、くじに当たった者に賞金を出す富くじをまねた景品付きのおみくじを置く神社もあるようですが、いたづらに人々の射幸心を煽るばかりで、本来の信仰の在り方に結びついたものとはいえません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年一月十五日
- 第二五八四号
お正月の縁起物である破魔矢の由緒や飾り方などについて教えて下さい。
お正月に神社に参拝した際に、破魔矢を受けられる方は多いことかと思います。破魔矢は正月の期間に社頭で頒布されている授与品の一つで、その年の干支の絵馬が付いたものがあるなど、一年間お飾りする縁起物となっています。
破魔矢の由来は、破魔弓と一式になったものであり、全国各地に見られる年占の際におこなわれた弓射を起源にするものともいわれております。これは各地区ごとに弓射を競い、勝った方がその年の豊作に恵まれるというもので、作物の豊凶をトするためにおこなわれてきました。
また、正月の男児の遊戯としても用いられていましたが、江戸時代以降、子供の成長の無事を祈る縁起物として、装飾を施した弓と矢が男児の初正月や初節供に贈られるようになりました(女児は羽子板)。その後、これが簡略化されて矢だけが魔除けとして、正月に神社で授けられるようになったと考えられます。
破魔矢はその名称の通り、魔を破り、災厄を祓う矢として信仰されています。上棟祭の折にも、鬼門の方角である東北と裏鬼門の方角である西南の方向に向けて、屋上に二張りの飾り矢を設けたり、鳴弦の儀と称して、神職が実際にこの方向に向けて弓射をおこなうのもこうしたことに基づくものです。
しかし、破魔という字を充てたのは後世のことであり、本来「ハマ」とは弓射に用いた丸い的のことで、各地に濱井場(はまいば)という地名が残るのも初春に「ハマ」を射た場所であることを意味したものとする説なども有ります(柳田国男「濱弓考」)
さて破魔矢の飾り方についてですが、神棚の上や床の間など清浄な場所に飾って戴ければ問題ありません。矢先の方角についても上棟祭の場合のように特に決められた方向はないかと思います。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年一月二十九日
- 第二五八六号
神社本庁の歴史的沿革や役割などについて教えて下さい。
神社本庁は、伊勢の神宮を本宗(ほんそう)と仰ぎ、全国の大多数に及ぶ約八万社の神社を包括する宗教団体です。本宗とは、伊勢の神宮が天照大御神をお祀りし、他の神社と比べて格別なる御存在であることを示す尊称として用いられています。
昭和二十年の終戦とともに進駐してきた連合軍総司令官(GHQ)は占領政策の一環として、神社の国家からの分離を目的とした「神道指令」を発しました。翌二十一年に内務省神祇院が廃止され、同年二月三日に神社関係の民間団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の三団体を母体として、全国の神社と神社関係者を統合するための宗教法人神社本庁が設立されました。設立にあたっては、教義が明確化された組織(神社教)の形態をとることなく、各神社の独立性を尊重し全国の神社が独立の組織として連盟を結成する(神社連盟)という考えが基本とされました。
神社本庁の役割は、包括下の神社の管理・指導を中心に、伝統を重んじ、祭祀の振興や道義の作輿をはかり、我が国の繁栄を祈念して、世界の平和と人類の福祉に寄与することであり、このため具体的な活動としては、(1)神社神道の宣揚(2)祭祀の厳粛なる執行(3)氏子崇敬者の教化育成(4)本宗である伊勢の神宮の奉賛と神宮大麻の頒布(5)神職養成(6)教化図書・冊子の発行頒布を通じた広報活動(7)その他、神社の興隆発展を図るために必要な諸活動などがあります。
前述のような性格により、他宗教にある統一的な教義といったものはありません。しかしながら、敬神崇祖を日常の生活実践としていることから「敬神生活の綱領」を定め、以下の三綱領を掲げております。
一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと
一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
一、大御心(おおみごころ)をいだきてむつびやわらぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること
また、神社本庁・神社の信仰的機能や神職・総代の役割などを明らかにした「神社本庁憲章」が定められ、道統護持のために必要な精神的規範とされています(参考・『神社本庁憲章の解説』神社本庁発行)。
本年は、神社本庁が設立してから五十五周年にあたり、来る五月二十二日には「神社本庁設立五十五周年記念式典」が催行されます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年五月十四日
- 第二六〇〇号
埼玉県在住の者ですが、県内に氷川神社が多いのはなぜでしょうか。その理由や信仰について教えて下さい。
氷川神社は、埼玉県さいたま市高鼻町に鎮座する旧官幣大社・氷川神社を本社に、武蔵国の内、現在の多摩川と元荒川(中世の荒川の主流)の間の荒川流域に多く分布しています。荒川は古来から幾度も川筋を変え、その下流域も低湿地であったため、度々の氾濫に悩まされていました。
この地に氷川神社が広く祀られるようになったのは、出雲系の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期であるともされ、縁の深い出雲の神々(須佐之男命・稲田姫命・大己貴命)が奉斎されました。
「氷川」の名は、常に氾濫するため恐れられ、故に神聖視された出雲の肥川(現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を肥川に見立て、畏敬の念をもって氷川の神として信仰したと考えられます。
このため、開拓・農耕神として篤く崇敬され、荒川流域で新たに開発された地域には守り神として氷川神社が分祀されました。このことが関東地方に氷川神社が多く鎮座する理由です。後世、武士の東国進出ともに、武門の神としても信仰を集めました。
「神社本庁祭祀祭礼データ」によれば、「氷川」の名の付く神社(本社のみ・ほとんどの神社が須佐之男命を主祭神とする)は全国で二百六十一社あり、この内、東京都に六十八社、福井県十二社、福島県五社、神奈川・茨城・栃木・山梨・島根県にそれぞれ二社、千葉・北海道・長崎・鹿児島県にそれぞれ一社、その他の百六十二社は埼玉県にあり、関東を中心に鎮座していることが分かりますが、他の地方にも見ることができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年十月八日
- 第二六二〇号
白旗神社の分布とその起源などについて教えて下さい。
白旗神社は、白幡神社・白籏神社とも表記し、源頼朝を主祭神としますが、この他、源義家や源義経などの源氏の武将や、源氏の氏神である八幡大神(誉田別命・神功皇后・比咩大神)を主祭神とすることも多いようです。
「神社本庁祭祀祭礼データ」によれば、「白旗(幡・籏)」の名の付く社名の神社は、神奈川・千葉・茨城県の関東地方を中心に、秋田・福島・岩手県の東北地方、富山・石川・山梨・静岡・岐阜県の北陸から中部地方にかけて分布し、本社が七十六社、境内社が七社ほど鎮座しています。
さて、白旗神社の起源については、やはり源頼朝を開祖とする鎌倉幕府の所在地、現在の神奈川県鎌倉市内に創祀されたのが始まりではないかと思われます。
現在、鎌倉市内には白旗神社が二社あります。まづ市内西御門の源頼朝墓所付近に鎮座する白旗神社は、明治五年の神仏分離によって頼朝の霊を祀る仏式の法華堂が白旗神社に改められたものです。また、鶴岡八幡宮境内に鎮座する摂社の白旗神社は、弘安四年(一二八一)の『鶴岡八幡遷宮記』(『神道大系・神社編二十鶴岡』所収)に本社と境内社が再建された記事があり、白旗社の社名も見られますので、創祀はこれより遡るものと考えられます。
御存知のとおり、白旗とは平氏の赤旗に対する源氏の籏の色であり、源平争乱の際にも敵味方を区別するものとして用いられました。このため白旗という社名は、源氏そのものを象徴する名であるということができます。鎌倉時代、源氏は東国を主な拠点としました。白旗神社が関西より以西に見あたらないのもこうした理由によるものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年十一月二十六日
- 第二六二六号
三種の神器とはどのようなものですか、教えて下さい。
三種の神器とは、歴代の天皇が皇位とともに継承される、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、または草薙剣∧くさなぎのつるぎ∨)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことをいいます。
これらの神器は、『古事記』『古語拾遺』などの神話を起源とします。八咫鏡と八坂瓊曲玉は、天照大御神が天岩屋にお隠れになられた際、岩屋の外にお出ましを戴くための祭りに用いられたもので、鏡は伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、曲玉は玉祖命(たまのやのみこと)が奉製しました。
また天叢雲剣は、出雲で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した折、大蛇の尻尾より出てきたもので、天照大御神に献上されました。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征討の際に火攻めにあったとき、この剣で草をなぎ払い、火難より免れたことから、草薙剣とも呼ばれるようになりました。
天照大御神は、天孫瓊瓊杵尊の葦原中津国への降臨に際して、この三種の神器を授けて、天照大御神の子孫である皇孫尊(すめみまのみこと)が末永く日本の国を治めるようにとの天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅を下され、以後、皇位の継承とともに連綿と引き継がれて現在に至っております。
八咫鏡は伊勢の神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に祀られております。また宮中には、八咫鏡の御分身が賢所に祀られ、御神剣の御分身と八坂瓊曲玉の御本体(剣璽)は御所内に安置されています。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年一月二十八日
- 第二六三三号
地域により三社詣や五社詣と称して複数の神社を巡拝する慣習がありますが、どのような意味を持つものなのでしょうか。
地域により複数の神社を巡拝する慣習があると聞きます。この場合、時代や各人の言い伝えなどにより、必ずしも参拝する神社が確定していないこともあるようです。
御質問では鹿児島市内にお住まいで三社詣をおこなう習慣があるとのことですが、『鹿児島県神社詞』には島津家初代藩主の忠久公(?ー一二二七)の時代に、毎年元旦に藩主自らがまづ一宮(一之宮神社)、次に二宮(鹿児島神社)、最後に三宮(川上天満宮)と、現在の鹿児島市内の三社を巡拝する慣習があり、このことが第十八代家久公まで続いたとあります。この他、現在では霧島神宮や鹿児島神宮、照國神社など県内の三社を巡拝することを三社詣ということもあるようです。
こうした複数の神社を巡拝する習慣について、古くは平安時代以降、律令制下に見られた国司神拝(じんぱい)の制度にその事例を見ることができます。当時、諸国ごとに一宮以下、二宮・三宮:五宮と各国における神社の序列が定められ、国司はその国に赴任すると執政に先立ちて、まづ一宮以下の順序に従って巡拝をおこない、国内の平安を祈願しました。一宮以下の序列は、後に国司による神拝がおこなわれなくなってからも、神社の社格を表すものとして用いられ、現在に至っています。
さて、全国的に見ても三社詣や五社詣、七福神巡りなど奇数の社寺への巡拝が多くおこなわれています。これには三・五・七が陽数であり、縁起の良い数字(吉数)であるということが理由であると考えられます。九も陽数ですが、我が国では「九」が「苦」の音と混同されて忌み嫌われる数となっています。
現在の三社詣や五社詣には、鉄道・旅行会社の企画から発したものも少なくなく、その意味合いについて一概には述べられませんが、これらの数を呪術的な意味のある聖数として神聖視する信仰と、森羅万象に宿る多くの神々を敬い、その御神徳に感謝するという日本人の神観念とが結びついたものといえるのではないでしょうか。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年二月二十五日
- 第二六三七号
陰陽師と神職とは同じと考えていいのでしょうか。
陰陽師と神職とは、基本的に別のものです。古代の令制下において、陰陽師とは陰陽寮に置かれた官職であり、中国伝来の陰陽五行説に基づく特殊な占法(陰陽道)により国家や個人の禍福吉凶を占い、それに対処するための法術を施す祈祷者のことをいいました。
『令義解』には、陰陽寮の職員として陰陽頭(おんみょうのかみ)・同助(すけ)以下の事務官の他に、学生(がくしゃう)に陰陽・暦・天文を教授する教官としての陰陽・暦・天文・漏刻(ろうこく)の各博士、また技術者として陰陽師六人が置かれたとあります。この役所の目的は、天体や天気の異常などを報告すること、暦を作ること、漏刻(水時計)により時刻を知らせること、亀甲や筮竹(ぜいちく)等により卜筮(ぼくせい・占い)をおこなうことで、中でも陰陽師は、卜筮と相地(地相に現れた吉凶を見ること)を掌るとあります。
これに対して、神祗祭祀を掌るのが専ら神祗官であり、各地の神社(官社)の祭祀を総轄していました。
このように陰陽寮と神祗官は別の官職であり、宮中の年中行事の中でも、大晦日の同日に、陰陽寮が大儺(たいな・後世の節分行事)という疫鬼を払う行事をおこなう一方で、神祗官では、百官以下の罪穢を祓う大祓がおこなわれました。
しかし、時代とともに神道と陰陽道の行事・内容に習合が見られ、中世には、陰陽道があたかも神道の一流派として考えられるようにもなりました。その後、平安中期の陰陽道の大家である安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする土御門家(つちみかどけ)が、江戸時代に各派の神道説を取り入れ、土御門神道として一派を成し、各地の陰陽師を支配しました。
明治時代、同三年の太政官布告により土御門神道が禁止されると陰陽道は衰退しますが、行事・内容の一部が神道の中に残され、現在に至っています。恵方・鬼門など陰陽道的な内容を見ることができるのも、こうした理由によるものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年十月二十九日
- 第二六二二号
神社の神紋には「三巴(みつどもえ)」が多いようですが、これの意味などについて教えて下さい。
神紋の成立については、すでに第二千五百二十号でお答えしたことがあるように、それぞれの神社に縁のある動植物、または祭器具を表したものや、歴史上の人物をお祀りする神社の場合にはその家の家紋から転用されたりなど、いくつかの事例を見ることができます。
さて、「三巴」の文様は家紋としても古く用いられ、後には八幡宮をはじめ、全国各地の神社の神紋として多く見られるようになりました。「巴」の字自体、その形が弓を射る時に弓手である左手首の内側につけ、弦が他の物に触れるのを防いだ革製の弓具である「鞆(とも)」の側面と形が似ているためにあてられたもので、「ともえ」の名も「鞆」に描かれた渦巻き状の文様を「鞆絵(ともえ)」と称したことに発したものであるようです。
次に巴の渦巻き状の文様が何を意味するかについては、水が流れる様子を表しているとする説や、雷の稲光を象ったとする説、雲を表現したものであるなどの諸説があり、この他にも蛇がとぐろを巻いている様子を象形化したものであるとしたり、勾玉を象っているなどの解釈もあり、はっきりとしていません。しかし、神社建築において、社殿の軒瓦に巴紋を付けることは魔除けや防火の意味があるともいわれていますので、森羅万象を司る神々の霊妙なる働きを具体的な形として表したものではないかということができるのではないでしょうか。
巴紋には、巴の数により「一つ巴」「二つ巴」「三つ巴」:と分かれている他、その旋回する頭の方向により、頭から時計の針と同じように右回りのものを一般的に「右巴」とし、その反対の方向に左回りのものを「左巴」といいます。
この「左巴」と「右巴」の別については、舞楽に使用されている大太鼓を例に、左座に用いる太鼓には左巴が、右座に用いられる太鼓には右巴が描かれていることにより、左右の座位を区別する目標として起こったものであるとする説があります(沼田頼輔氏『日本紋章学』)。
また、時代や文献等によっては右回りのものを「左巴」と称するなどの違いも見られ、何を基準にするかによっても異なりますので、お互いに表裏をなすものとして同様の意味を持つものではないかと考えられます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年五月十三日
- 第二六四七号
戦国時代、百二十年余り途絶えた伊勢の神宮の式年遷宮を再興した慶光院上人について教えて下さい。
伊勢の神宮では、内宮は持統天皇四年(六九〇)、外宮は同六年から、それぞれ二十年毎の式年をもって、御遷宮が繰り返しおこなわれてきました。
式年遷宮がおこなわれることについては、一つは木造建築物の耐用年数などを勘案したことであるとする説や、工匠等が次世代に技術を伝承していくのに適当な年数の間隔であるということ、また社殿をはじめ御神宝・御装束などの調度に至るまで一新してさらなる御神威の発揚を願うためであるといった諸説が理由として考えられています。さて、奈良・平安時代を経て鎌倉時代末まで式年をもっておこなわれてきた御遷宮も、室町時代中期頃よりその制度が乱れていきました。甚だしきに至っては、社殿が荒廃しても正遷宮(新たな社殿を造営して御遷宮をおこなうこと)が斎行されず、仮殿に遷御して元の社殿を修理する仮殿遷宮のみがおこなわれた時代が長く続きました。
こうした中、天正十三年(一五八五)、内宮の正遷宮が百二十四年ぶりに、また永禄六年(一五六三)、外宮の正遷宮が百三十年ぶりに再興されるにあたり力を尽くしたのが慶光院上人でした。
慶光院とは伊勢市宇治浦田にあった尼寺のことで、中興開山により初代の慶光院主となった守悦は、洪水によって流された宇治橋を修復するため自ら諸国を回ってその浄財を募り(勧請し)、永正二年(一五〇五)に大橋が竣功しました。
同院三代院主の清順は、宇治橋の修築のみならず御遷宮再興のために勧請し、永禄六年に外宮の御遷宮が、続く四代院主の周養は正親町天皇の論旨を拝して諸国に募財、その尽力によって、天正十三年十月十三日に内宮、二日後の同十五日に外宮の正遷宮がそれぞれ斎行されました。その後も五代院主の周清が慶長十四年(一六〇九)と、寛永六年(一六二九)の両宮の式年遷宮斎行に尽くすなど神宮との深い関わりが見られます。
こうした功績により同寺の院主は代々上人号と高僧のみが賜る紫衣が勅許せられ、豊臣家や徳川家といった武家の尊崇はもとより、広く世間に遷宮上人・伊勢上人と称されるようになりました。その後、両宮の御遷宮は江戸時代から現在に至るまで、ほぼ二十年毎の式年により継続して斎行されてきました。次の第六十二回式年遷宮は平成二十五年に斎行の予定です。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年六月十日
- 第二六五一号
幣帛料と幣饌料について教えて下さい。
幣帛(へいはく)とは祭祀において神々に対する報賽や祈願などのために奉られるものです。「幣」「帛」が共に布にちなむ意味を持つことから、古くより絹や麻、木綿(ゆふ)などの布帛を柳筥(やないばこ)に納めてお供えをしました。この布帛の代わりに金幣(貨幣)をもってお供えするのが幣帛料です。
これに対して幣饌料とは、「幣帛料」と神饌にあてるための「神饌料」を両方あわせた金幣のことをいいます。
明治の神社制度では、旧官国幣社には例祭などの折、幣帛現品もしくは幣帛料と神饌料がそれぞれ奉られました。官幣社は例祭に皇室より幣饌料の御奉納があり、国幣社の例祭には国庫より共進されました。また、府県社及び郷社は府県より、村社に対しては市または町村より、それぞれ幣饌料が共進されるように定められておりました。
戦後は、神社本庁より包括下神社の例祭などの祭祀に「本庁幣」として金幣が共進されています。天皇陛下からは、特に皇室と歴史的にも由緒が深い神社に、御内意により例祭などに勅使(掌典)が差し遣わされ、幣帛が奉奠されます。この神社を勅祭社といい、埼玉の氷川神社や京都の石清水八幡宮、奈良の春日大社など全国に十六の神社があります。勅祭社以外でも、終戦五十周年臨時大祭に際して各地の護国神社に幣帛料の御奉納があったように、特別な思し召しにより、掌典を通じて幣帛(幣帛料)の共進がなされることもあります。
また、各地への行幸啓に際して、その地方の旧官国弊社や護国神社に対して、幣饌料を御奉納されることがあります。
しかし御所や御用邸などたびたび行幸啓がある京都府や栃木県では、他都道府県と不平等にならないよう、行幸啓毎に幣饌料が伝達されることはありません。
最近の奈良県への行幸啓では、五月二十九日、橿原神宮御親拝にあたって同神宮に幣帛料・神饌料、県内旧官国弊社と奈良県護国神社には幣饌料をお供えになる旨仰せ出され、拝受した大神神社、大和神社、石上神社、春日大社、廣瀬神社、龍田大社、丹生川上神社上社、丹生川上神社、丹生川上神社下社、吉野神宮、談山神社、奈良県護国神社では、それぞれ奉告祭が斎行されました。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年七月八日
- 第二六五五号
地鎮祭でお供えする鎮物(しづめもの)について教えて下さい。
地鎮祭は土地の神々にその土地の使用を願うとともに、工事の安全や生活の平安を祈念するお祭りです。
御質問の鎮物は、土地の神霊を和め鎮めるために捧げるお供え物として、地鎮(とこしづめ)の儀である・米・塩・切麻(きりぬさ)の散供(さんく)、忌鎌(いみがま)・忌鍬により起工の所作をおこなう刈初(かりぞめ)・穿初(うがちぞめ)の儀に引き続きおこなわれる鎮物埋納の儀に用いられます。
古くは『皇太神宮儀式帳』(八〇四)に伊勢の神宮で御遷宮の折、正殿地の地鎮祭に鎮物が用いられたことが記されています。
鎮物は忌物(斎物)とも称して、鉄板によって作られた人形(ひちがた)や刀、楯・矛・鏡、また石やガラスの玉、氏神様の境内の清浄な砂か小石、五色の幣串や祭典で神籬として用いた榊の芯など数々のものがあてられ、その土地に埋納されます。
鎮物に人形が用いられることは、建築や築堰等の難工事にあたり、土地や川の神々を鎮めるためおこなわれていた人柱の儀礼が形式化したもので、また刀などの武具や鏡・玉は御神宝として、砂や小石、幣串・神籬の芯はそれぞれ神霊の宿るものとして考えられていたことによるものです。
三輪山を神体山とする奈良の大神神社では、山中より鏡や勾玉など多くの祭祀遺物が出土し、宝物として保管されていますが、これらはお祭りで捧げられた御神宝や祭器類がそのまま埋納されたと思われており、鎮物同様、古代祭祀の形を示すものと考えられます。
現在、鎮物埋納の儀では、鎮物を斎砂の上に載せるなど埋納の所作のみおこない、祭典の後、施工者が建物の基礎工事をおこなうため杭を深く掘った際、建物の中央の杭に納めるのが一般的なようです。
自らの住まいなど建物を設ける起工に先立って、鎮物を捧げて土地の神霊を丁重にお祭りすることの意味は、日常生活全ての営みに神々の存在を感じ、感謝の念を持って暮らしてきた我々日本人の信仰に基づくものということができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年七月二十二日
- 第二六五七号
日章旗の旗竿上部の玉と旗竿の白黒模様の意味や、神道との関わりについて教えて下さい。
旗竿上部の金色の玉は、旗竿の最上部に象徴として取り付けられる部材で「竿頭」(かんとう)といいます。
この由来については、『日本書紀』に神武天皇の東征に際して、神武天皇の弓の先に金色に光り輝く鳶(とび)がとまり、その姿が雷光のようだったので皇軍に帰順しなかった長髄彦(ながすねひこ)の軍勢をたじろがせ、これを打ち破ることができたという瑞兆により、金色の玉はこの霊鳶を現しているとする説があります。
外国の例をみると、革命に端を発するフランス国旗では竿頭が剣形、アメリカ合衆国はアメリカンイーグルを付けたもの、大韓民国は国花であるムクゲの枝をあしらっているなどさまざまな形があり、日章旗の竿頭の形も、神典に由来する我が国の伝統に合ったものということができるのではないでしょうか。
また、金色については千成瓢箪(せんなりびょうたん)に代表されるように古くから武将が旗指物などに好んで用いた色彩で、金玉(きんぎょく)は権威や繁栄を意味するものと考えられてきました。
次に旗竿の白黒模様ですが、社団法人国旗協会発行の冊子『日の丸ものがたり』にはその理由を、明治初年から各地で鉄道路線が広がっていくのに際して、開通のお祝いで列車の先頭に日の丸を掲げようとしたところ、日の丸をつける旗棒についての議論があったため、鉄道工事で一番大切な測量に用いる測量棒に国旗をつけることになり、その後、鉄道開通式以外にも測量棒に似た白黒の旗棒が用いられ、普及していったとあります。
また、白黒という二色の配色は、式服の色彩にも見ることができますし、神事などのハレの場において神聖な色として用いられてきたことも普及した理由の一つとして考えることができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年八月十二日
- 第二六六〇号
御神前へのお供えに用いる祭器具について教えて下さい。
祭器具とは神事や祭祀に関わる用具の総称です。その中でも、特に御神前へのお供えに使用する祭器具には、神饌をお供えするためのものと幣帛をお供えするものの二種類あります。
具体的な例を挙げると、まづ神饌をお供えするものには、神饌を盛る陶製の器である平瓦(ひらか)、お神酒を供える瓶子(へいし)、水を供える水玉などお供えを直に盛る祭器具の他に、神饌を盛った器を置く台となる三方(さんぼう)や高坏(たかつき)、三方の胴の部分を省いた折敷(おしき)などがあります。
平瓦は白色陶製や素焼きのもの、また、三方・高坏も素木(しらき)や黒塗り、朱塗りのものなどがあります。
三方とは、胴の部分に眼象(げんじょう)と呼ばれる穴が三方に開いているためにこの名称があります。元々は四方に穴の開いた四方もあり、食物を載せる台として実際に用いられていましたが、神事用として三方のみが残りました。三方などの上に神饌を盛る場合、掻敷(かいしき)という下敷きを使う場合があり、半紙や柳の葉などが用いられます。
次に幣帛をお供えするために用いられる祭器具としては絹や木綿(ゆふ)、麻などの幣帛を現金でお供えする場合には、柳の素木を三角に削り、これを糸で編んで作った柳筥(やないばこ)の中に納めて御神前にお供えします。
お金を以て幣帛に代えてお供えする場合、これを幣帛料といいます。幣帛料の場合は、折敷に雲形の脚がついた雲脚台(うんきゃくだい)に載せるか、やはり折敷の左右二方に板脚が付き、それぞれに眼象の穴が開いている大角(だいかく)に載せて御神前にお供えします。
以上のように、お供えに用いられる祭器具だけでも多種に及びます。これらの祭器具を用いる場合に大切なことは、常に清浄であるよう保管することはもとより、素木や塗りの別は社殿等に合ったものを選ぶこと、またそれぞれの用途に合うように正しく取り扱うことです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年九月九日
- 第二六六三号
玄関に飾るお正月飾りの意味などについて教えて下さい。
お正月には、各家庭において年神さまをお迎えします。年神さまは、正月さま・歳徳(としとく)さま・若年さまなどとも呼ばれ、その年の吉方である恵方(えほう)より訪れ、一年間の家庭の健康と幸福を授けてくださる神として信仰されてきました。
この神を農耕をつかさどる田の神であるとする説や、御先祖さまの神霊であるとする説もあり、私たち日本人は古来、正月行事として年神さまを迎え、お祀りすることをおこなってきました。
玄関の注連飾りも年神さまをお迎えするためのもので、年末に家内の大掃除を終えた 後、お飾りするのが一般的です。但し、一夜飾りとなる三十一日は避けます。注連飾りは正月注連(じめ)、正月飾り、年縄とも呼ばれ、不浄が清められ、家内が年神さまを迎えるのにふさわしい清浄な場所であることを示すほか、外から災厄が侵入するのを防ぐ意味もあります。
その形態もさまざまですが、一般的な形としては藁で編んだ注連縄に白色や紅白の紙垂(しで)を垂らして、清浄かつ神聖であることを表し、その上に裏白(うらじろ)などの山草、ゆづり葉、橙(だいだい)、新馬藻(ほんだはら)などの海藻や海老が添えられます。裏白は長命・潔白を、ゆづり葉は家系を後の世代までゆづり絶やさないこと、橙は家系が代々栄えること、海老は腰が曲がるまで長寿であることを意味するなど、それぞれが縁起物であるとともに、橙、海藻、海老などの食物は年神さまを祀るためにお供えされる神饌の意味があるとも思われます。
このほか、玄関や門柱の左右に立てる門松は年神さまをお招きするための依り代(よりしろ)であるともいわれ、家内に年神さまを祀るため、正月の間のみ祭壇を設ける地域もあります。
正月飾りは、正月七日の七草までお飾りし、小正月(一月十五日)におこなわれるどんと焼きや左義長(さぎちょう)と呼ばれる火祭りにおいてお焚き上げされることが多いのですが、地方によっては年間を通してお飾りする場合もあります。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年十二月九日
- 第二六七五号
神社で厄払いなどの御祈祷を受ける際、「数え年」の年齢を聞かれますが、なぜなのでしょうか。
年齢の数え方には、お正月を迎える毎に一歳加える「数え年」と、自分の誕生日毎に一歳の年齢を加える「満年齢」があります。
神社で数え年を聞かれるのは、我が国では古来、お正月が各家庭で「年神さま」を迎えて、新たな年の五穀豊穣と家庭の幸せを祈る大切な神事ですので、その時に合わせて家族皆が一歳づつ年をとる「数え年」が相応しいと考えられてきたからです。古来、日本には「零」の概念がなく、生まれた日が一歳で新年を迎えると二歳になりました。
「満年齢」の数え方は、明治以降の近代法制度のもと次第に定着してきたものです。明治五年十一月九日の詔書により、これまで用いられてきた太陰太陽暦(旧暦)が太陽暦(新暦)に改められました。これは開国によって西欧諸国を中心とした諸外国との交流の機会が増え、当時広く世界に普及していた太陽暦(グレゴリオ暦)を使用する必要性が生じたためです。
また、時刻法も一日を十二支にあてて数える不定時制でしたが、新たに一日二十四時間の定時制に切り換えられるようになりました。
こうしたことから、年齢の数え方も「数え年」から「満年齢」へと次第に変わっていったのです。
それまで伝統的な考え方によりおこなわれてきた「数え年」は、旧暦にあった年齢の数え方でした。旧暦は農事暦の側面もあり、自然の移り変わりを表したもので、稲作を中心とした我が国の生産活動に適した暦でした。
しかし、この暦は数年に一度、約一ヶ月間の誤差が生じてくるため、年によっては同じ月を二回重ねて、例えば五月が二回ある年は後の月を閏五月と呼んで用いてきました。このように農耕には適する反面、数年に一度の閏月が生じるため、誕生日による「満年齢」の換算には適さないものでした。
神社で、「数え年」を用いているのは、こうした日本の伝統的な考え方を今に継承するものであり、現在でも神道では「数え年」による数え方を尊重しているのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十五年一月十三日
- 第二六七八号
社殿などに貼られている千社札の意味について教えて下さい。
千社札とは、神社の社殿や手水舎の柱や壁・天井に無差別に貼られている自分の氏名や屋号・雅号などを記した紙片のことです。
千社札は江戸時代から庶民の間で流行したものですが、古くは空海にまつわる四国八十八カ所の霊場(寺院)の参詣や、各所にある観音霊場の巡礼した際、そのしるしとして、巡礼の名所や自分の住所・年齢、同行者名を記した木や紙の札を納めたこと(納札)にちなむものといわれています。今でもこうした寺院を札所と呼んでいるように、本来は寺院を対象としたものでしたが、後に数多くの神社仏閣を巡礼する千社詣りが流行ると、神社においても、社殿などに千社札が貼られるようになりました。
千社札は、元々手書きによるものでしたが、木版刷りのものが普及すると、浮世絵の技法や意匠を取り入れるなど、豪華なものも作られるようになりました。社殿に貼られる他、愛好者の間では互いの札を持ち寄り、交換するなど次第に信仰から離れ、趣味としての意味合いが強くなっていきます。中には有名な浮世絵師に作成を依頼するなどして家業が傾くものまで現れたため、江戸幕府は奢侈なものとして、庶民の千社札の交換会を禁止するようにまでなりました。しかし、こうした規制もあまり効果が見られなかったようで、その後も庶民の間の流行として千社札が作られました。
現在でも伝統的な木版刷りの千社札が作成され、愛好者の間で交換会がおこなわれる一方、機械印刷による簡便なステッカー形式のものが多く出回るようになっています。趣味としてこれを収集することは問題ありませんが、神社によっては「千社札お断り」の立て札が見られるなど、社殿の美観を損ねるものですので、参拝記念として社殿に千社札を貼るのは慎みたいものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十五年二月十日
- 第二六八二号
教派神道について教えて下さい。
教派神道とは神道系の宗教教団のことをいい、一般的に戦前の神道十三派のことをさします。
神道十三派とは、出雲大社教、御嶽教、黒住教、金光教、實行教、神習教、神道修成派、神道大教、神理教、扶桑教、禊教、大成教、天理教のことで、これらの教団は伝統的な神道の信仰や儀礼などの影響を受けながらも、多くが創始者(教祖)のいる創唱宗教的な形をとるものです。
これらの教団は江戸時代に組織されたものもありますが、明治維新の後、新政府により神社が国家の宗祀とされ、宗教の枠外に位置付けられたため、それまで、布教活動をおこなっていた各教団は神道系の宗教教団として公認されるようになりました。
元来、神道は特に布教はおこなわず、我々日本人の伝統的な慣習を基礎としたものでしたが、教派神道では独自の教義や教典を持ち、これを積極的に広めることを主たる活動の目的としています。
明治二十八年、教派神道の各派はその連合会(現・教派神道連合会)を結成し、相互の交流が持たれるようになりました。この会は戦後も存続し、現在に至っておりますが、途中で神道十三派に含まれていなっかた大本が加盟したり、大成教・天理教が脱退するなどして、十二教団により構成されています。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十五年二月二十四日
- 第二六八四号
家屋を新築する際などに問われる家相について教えて下さい。
家相とは土地の形状や家屋の間取り、方位などが、その家に住む人に影響を与えるという考えにより吉凶禍福を判断するもので、これは、古代中国の陰陽五行説に由来し、経験的な知識や民間信仰なども交えたものでした。
また、古くから都市選定の祭に「四神相応」という地相が理想的な場所として重視されたことも、この考えに基づきます。
四神とは、神社の調度として立てられる旗にも描かれていますが、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の聖獣をいい、青龍は東の方角を司り、水の流れを意味し、朱雀が南で窪地を、白虎が西で大道を、玄武が北で丘陵を意味します。
このような土地に囲まれている場所が四神の相応じた吉相の土地とされました。平安京(京都)もこうした条件により選ばれたものですが、これには清涼な土地であることや、排水、交通など都市生活に不可欠な諸条件を充たす経験的な知識が背景にあるともいわれています。
そのほか、北東の方角を鬼門として忌み嫌います。鬼門とは疫鬼が出入りし、災いをもたらす方角であるとされ、都市ではその方角に鬼門除けの寺社を祀りました。平安京では延暦寺が、鎌倉では荏柄天神、江戸では寛永寺がそれぞれ鬼門除けのために建立された寺社であるとされています。
さて、以上のことは、各家庭の家屋についても同様で、特に建築に際しては鬼門の方角(北東)に、玄関や便所、風呂、台所をつくることは避けます。この他、家屋の間取りなど詳細な吉凶判断の基準があり、家相は現在においても民間信仰として根強い影響があります。
しかし、都市においては土地事情などにより、これら全ての条件を充たすのはたいへん難しいことです。経験的な知識として従うことができることは従い、致し方ない場合はそれに合った対応を図ればよいのではないでしょうか。いづれにしても家屋を清浄な環境に保ち、家庭が円満に暮らすことが何よりも大切なことといえます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十五年三月十日
- 第二六八六号