神前作法
- 神様に捧げる榊を玉串(たまぐし)と言ってますが、玉串について教えて下さい。
- 神社でご祈祷を受けるとき、失礼のないように正座をしますが、その起源などについて教えて下さい。
- 神社における参拝作法は「二拝二拍手一拝」となっていますがなぜですか。その起源について教えてください。
- 神職が御神前で奏上する祝詞について教えて下さい。
- お参りに参列していて祝詞奏上の際に頭を下げる意味と、椅子から立つタイミングについて教えて下さい。
- 神前結婚式でおこなわれる三三九度の盃について教えて下さい。
- 神事に際して奏でられる音楽について教えて下さい。
- 神職の服装(装束)について教えて下さい。
- 祭典に参列する一般の方の服装や、揃いの法被を着用する理由等について教えて下さい。
- 神職が祭典の際に手に持つ笏(しゃく)について教えて下さい。
- お祭りで神職の作法を見ていると足の運び方が気になりました。何か決まり事があるのでしょうか。
- 神職が履いている靴について教えて下さい。
- 玉串の意味や由来、その語源などについて教えて下さい。
- 祭典の際に神職が頭に被る冠について教えて下さい。
神様に捧げる榊を玉串(たまぐし)と言ってますが、玉串について教えて下さい。
神社で正式参拝する場合や、いろいろな祈願をする際には、一般的に玉串を捧げて拝礼いたします。
玉串とは、榊などの小枝を用い、これに紙垂(しで)や木綿(ゆふ)、麻苧(あさお)を付けたものです。紙垂や木綿は、古来から神聖なもの、清らかなものを表すために付けられました。
玉串を捧げる意味については、神籬(ひもろぎ)と同様に御神霊を迎へる依代(よりしろ)として、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祭られる神と祭る人との霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たすという考えがあります。このほか、いろいろな説がありますが、神様に対して参拝者自らがまことの心を表すために捧げるということに変わりありません。
玉串の捧げ方は、神職より手渡された玉串を右手で根本を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸の高さに捧げ持ちますご神前に置かれた案(祭事に用いる机)に進み出て一礼をし、玉串を立て左手を下げて右手に揃え、玉串に祈念をこめたあと、右手で玉串の中央を下から支え、根本を時計回りにご神前に向け、案の上にお供えします。その後、二回頭を下げ、二回拍手、もう一回頭を下げる、いわゆる「二拝二拍手一拝」の作法で拝礼します。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成九年十二月二十二・二十九日
- 第二四四一号
神社でご祈祷を受けるとき、失礼のないように正座をしますが、その起源などについて教えて下さい。
神社でご祈祷を受けるときの作法には、立礼(りゅうれい)と座礼の二種類があり、立礼の場合には、祈祷者は胡床(こしょう)などの腰かけを用い、座礼の場合には正座をします。お祓いを受けるときや、神職が祝詞を奏上する際には、立礼では起立をしますが、座礼では正座のままで頭を下げます。
正座の起源については諸説がありますが、現在のような座り方が正座として定着してくるのは、そう古いことではありません。江戸時代に入ってから畳敷きの部屋の普及によって、一般的になってきました。それ以前は、胡座(あぐら)や方膝立てなどが座り方の基本だったようで、当時の絵巻物や塑像などにより窺うことができます。
正座をすると自ら心身ともに引き締まった気持ちとなります。正座は、改まった席や晴れの舞台へと進み出る際の心構へを要求する座り方です。また、畏まるという姿を現す上で最も相応しいものとして、現在の形が正座とされるようになったものとも言えます。すぐに立ち上がって動作をする上でも便利な姿勢であり、神様に奉仕する神職やご祈祷を受ける際に、適した座り方ではないかと思います。
現在、洋間の普及により、家庭において正座をする機会が少なくなりましたが、この美しい座り方を忘れたくはないものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年三月九日
- 第二四五一号
神社における参拝作法は「二拝二拍手一拝」となっていますがなぜですか。その起源について教えてください。
私たちが人に対してお辞儀をするときは、普通は一礼だけですが、神様を拝むときは一般に」二拝二拍手一拝」の作法が用いられます。
この作法は我が国の伝統的な作法である両段再拝に基づくものです。両段再拝とは、再拝(二拝)を二度行うことをいいます。実際の作法では、拝を連続して行うこともあれば、二拝の後に拍手又は祝詞奏上を行い、再び二拝を行う場合もあります。
拍手については、古くより我国独自の拝礼作法として、神様や貴人を敬い拝む時に用いられました。平安時代、大陸との交流による影響で、宮中ではこの作法は行わなくなり、ただ二拝のみをするようになったことが文献に見えます。しかし、神様を拝む際は変わらず拍手が用いられてきました。
その後、この両段再拝の作法も各流派や神社によって多少の違いを生じましたが、明治八年に式部寮によって編まれた「神社祭式」に「再拝拍手」という形が規定され、これを基本に「二拝二拍手一拝」と言う参拝作法が慣例化しました。神社によっては今日でも一社の故実により異なった作法を行っているところもあります。たとえば神宮の神職が行う八度拝や、出雲大社の四拍手といった作法などをその一例として挙げることができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年六月八日
- 第二四六三号
神職が御神前で奏上する祝詞について教えて下さい。
祝詞とは、祭典に奉仕する神職が神様に奏上する言葉であり、その内容は神饌・幣帛を供えて、御神徳に対する称辞(たたえごと)を奏し、新たな恩頼(みたまのふゆ)を祈願すると言うのが一般的な形と言えます。
これの起源は古く、記紀神話にも天岩屋戸の段で、天照大御神がお隠れになられた天岩屋戸の前にて、天児屋根命が「布刀詔戸言(ふとのりとごと)を奏上したことが見られます。また、『延喜式』巻八には現存する最古のものとして、朝廷の祭儀に関わる二十七編の祝詞が収録されており、現在でも重要視されています。
我が国は、「言霊(ことだま)の幸う国」とも称されるように、言霊に対する信仰が見られます。言葉には霊力が宿り、口に出して述べることにより、この霊力が発揮されると考えられています。例えば忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉によると状況が好転するというもので、婚儀など祝儀の際に、忌み言葉を使わぬよう注意を払うのも、こうした考え方によることなのです。
祝詞には、こうした言霊に対する信仰が根底にあるため、一句一句に流麗で荘重な言い回しを用いて、決して間違えることがないよう慎重に奏上されます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年五月三十一日
- 第二五〇八号
お参りに参列していて祝詞奏上の際に頭を下げる意味と、椅子から立つタイミングについて教えて下さい。
椅子に座ってお祭りに参列している場合、神職が祓詞や祝詞を奏上する時は起立し、腰を折って頭を下げます。
これはお祭りに奉仕している神職の作法と同様で、祝詞や祓詞を奏上する神職以外は、奏上の際に、座ってお祭りをおこなう座礼の際には平伏(へいふく=座ったまま前に手をつき頭を下げる作法)、胡床(こしょう=椅子)を用いる立礼の場合には、馨折(けいせつ=立ち上がって腰を折り頭を下げる作法)という敬礼をおこないます。
これらの敬礼は祝詞を奏上して、国家安泰や家内安全などの諸祈願を神様にお聞きいただくにあたっての慎み敬いの態度で、お祓いを受けるときや、神様にお遷りいただく渡御や降神の儀、御扉開扉の際にもおこなわれます。
次に立礼での祝詞奏上に際して起立をするタイミングですが、神社本庁規程である「神社祭式行事作法」には、これについて詳しい定めはありません。
一般的には、斎主が神前に進み出て祝詞座に着こうとする頃、つまり小揖(しょうゆう=浅く腰を折る作法)して三歩進む頃に起立し、拝礼後に祝詞座を退かんとする頃、つまり深揖(しんゆう=深く腰を折る作法)して三歩退く頃に着座をします。この理由は、斎主が祝詞奏上にあたって拝礼している際も、他の神職や参列者は起立の状態であることがふさわしいと考えられるからです。このことは昭和五十五年の神社庁祭式講師研究会の席上で話し合われ、申し合わせ事項ともなっています。
祝詞奏上の直前に起立し、奏上終了直後に着座をするという作法をとる例も見られますが、神職から説明がある場合にはその説明に従い、無い場合には前者のことを参考にされたらよいのではないかと思います。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年十一月八日
- 第二五三〇号
神前結婚式でおこなわれる三三九度の盃について教えて下さい。
神前結婚式では、三三九度と呼ばれる、新郎新婦が酒盃を取り交わすことによって夫婦固めをなすという儀式がおこなわれています。 三三九度とは、酒盃を取り交わす回数を表したもので、酒を一杯飲むことを一度といい、三杯(三度)飲むことを一献として、これを三献つまり九杯(九度)酒盃を戴く作法をいいます。これは式三献と呼ばれ、平安時代、すでに公家の酒宴の作法として見られたことであり、婚礼以外でも、加冠や元服などの祝儀や、節会の宴席においておこなわれていました。
武家の礼法である小笠原流の婚礼式にもこの作法は見られ、陰の式として白装束を着けて三三九度をおこなった後、陽の式では色の装束を着け、三三九度をおこないます。この詳細は、陰の式では、新郎が初めに一の盃で三度酒を飲み、次に新郎が二の盃で同じく三度酒を飲みます。さらに三の盃で新婦が三度酒を飲みます。陽の式ではこの逆に、一の盃が新郎、二の盃が新婦、三の盃が新郎といった順序になります。
現在の神前結婚式は、我が国の伝統的な婚礼の形を継承したものであるため、三三九度はこの重要な行事となっています。神社本庁選定による『諸祭式要綱』では神酒拝戴の作法として、まず一の盃では新郎が一度、次に新婦が一度飲み、二の盃では新婦、新郎の順にそれぞれ一度飲み、三の盃では新郎、新婦の順に一度づつ戴くとあります。また付記には正式な作法として、一の盃を新郎、新婦、新郎と一度づつ飲み、二の盃を新婦、新郎、新婦の順で、三の盃を新郎、新婦、新郎と合わせて九度の酒盃を進める三三九度の作法が記されております。
丁重なる作法により御神酒を戴く三三九度は、婚礼をさらに厳粛なものとするとともに、恩頼(みたまのふゆ)を戴くことにより、家庭円満と子孫繁栄を願う大切な儀式といえます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年十二月十三日
- 第二五三四号
神事に際して奏でられる音楽について教えて下さい。
キリスト教の賛美歌や仏教の声明(しょうみょう)のように、各宗派では儀礼の際に音楽が演奏され、信仰面で重要な役割を果たしています。これは神道においても同様であり、神事によっては欠かせざる要素と言うことができます。
例祭や結婚式などの神事で、私たちが耳にするのは、神楽(かぐら)や雅楽と呼ばれる音楽であり、それぞれ楽器の演奏のみをおこなう場合と歌や舞を伴う場合があります。
神楽とは記紀神話の天の岩屋戸の段で、岩屋戸前において天鈿女命(あめの うずめのみこと)が神懸りして舞った歌舞を起源とするもので、「神遊(かみあそび)」とも称されます。天鈿女命の子孫である猿女(さるめ)氏は、神祇官の官女として重要な神事に神楽舞を奉仕しましたが、これは御神霊を招いて神慮を慰めるといった鎮魂の神態(かむわざ)を伝えたものと言われています。
神楽は宮中でおこなわれる「御神楽(みかぐら)」と、「里神楽」など民間の神楽に大別され、後者は各神社の巫女舞を中心とした神楽、神話や神社縁起を演じた「天戸神楽」や「神代神楽」また「霜月神楽」などさまざまな形を見ることができます。
雅楽とは中国や朝鮮において、祭祀などの儀礼に用いられていた楽曲が我が国に伝来したもので、大宝元年(七〇一)には雅楽の養成をおこなうため、宮中に雅楽寮という役所が設置されました。平安時代には演奏形式や従来の楽曲が我が国風に合う形に改められ、その後も専属の楽人を養成する寺社が現れるなど、一般でも演奏されるようになりました。
現在、宮内庁楽部による雅楽には、古来からの神楽も大陸から伝来した管絃及び舞楽等も含まれております。こうした楽曲が現存し、今もなお演奏されていることは、まさに我が国悠久の歴史を物語るものと言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年四月十日
- 第二五四九号
神職の服装(装束)について教えて下さい。
神職が祭祀や儀式に着用する服装を装束と言いますが、この装束には、祭祀の種類や着用する神職の身分に応じて、種類があります(神社本庁「神職の祭祀服装に関する規程」)。
まず神社における祭祀は、大祭・中祭・小祭(恒例式を含む)の三種類に分けることができます。大祭とは、例祭・祈年祭・新嘗祭・遷座祭など、中祭は、歳旦歳・紀元祭・天長祭など、小祭(恒例式)とはこれ以外の祭祀及び大祓式などの恒例式を指し、神職の服装もこれに応じて、大祭には正服を、中祭には礼装、小祭(恒例式)には常装と定められています。
具体的に、正装とは男性の場合が「衣冠」(いかん)であり、冠をかぶり神職身分に応じて定められた色の袍・袴を着けます。礼装とは「斎服」(さいふく)であり、冠をかぶりますが、身分に関わらず袍・袴とも白地のものを用います。常装には「狩衣」(かりぎぬ)と「浄衣」(じょうえ)の二種類があり、烏帽子を着用します。
「狩衣」はその名の通り、狩猟用の服装として成ったものであり、その後も公家が日常に着ける略装として用いられてきました。「狩衣」はさまざまな色の染色と文様を施され、身分に応じた袴とともに着用しますが、「浄衣」は白地で文様がなく、専ら神事のみに着用されます。
女性の場合は、正装には「正服」として、頭に釵子(さいし)を着け、染色・文様の施された唐衣(からぎぬ)・表着(うわぎ)・袴(色は神職身分により指定)を着用します。礼装は「斎服」であり、釵子を着け、身分に関係せず白地で文様の無い表着・単・袴を用います。また常装は「常服」と「浄衣」が用いられ、「常服」は、頭に額当(ぬかあて)を着け、それぞれ染色された表着と袴(色は神職身分により指定)を着用します。「浄衣」は「常服」と同様の仕立てですが、白地で文様の無い装束を用います。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年六月二十六日
- 第二五五九号
祭典に参列する一般の方の服装や、揃いの法被を着用する理由等について教えて下さい。
神職の装束とともに御質問が多かったのは、一般の方の祭典奉仕や参列における服装についてです。
社殿に上がっての正式参拝、また御祈願を受ける場合など、特に決まりはありませんが、やはり一定の服装が求められます。例えば、正式参拝の際には、日常の参拝とは異なるため、洋装の場合、男性はネクタイ着用が原則となります。また、公共建築や会社など大勢の人が参列する地鎮祭・竣工祭や多人数の参拝の代表を務めるときなどでは、ダークスーツや略礼装が相応しいかと思います。
神社の例祭など恒例祭への参列では、神社によっては正装であるモーニング着用の指定がある場合もあります。一般的には略礼装かダークスーツなどでの参列が望ましいかと思います。(女性はこれに準じた服装となります)。和装の場合では、男性の場合が羽織袴、女性の場合が黒留袖や、訪問着等となります。
また七五三・成人式の場合、本人が和装や洋装の晴れ着を着用しますが、付き添いの方は本人以上の晴れ着を着用することは避け、平服で参拝することもあります。
この他、制服が定められているときには、この制服が正装に準ずる服装となる場合もあります。
一方、祭典に揃いの法被を着用するのはなぜかという御質問ですが、法被は元々、下級武士が着た半身衣であり、主君の家紋が施され、看板とも称されていたもので、それが職人などにも広がり、時代が下がるとともに祭典にも着用されるようになります。同じ紋所をつけたものが仲間同士で着用されてきたことから、揃いの法被を着けることにより、祭典に臨んで連携を図るという意味があるのではないかと思います。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年七月十日
- 第二五六一号
神職が祭典の際に手に持つ笏(しゃく)について教えて下さい。
一般的に神職の服装と言えば、手に持っている笏をまづ思い浮かべる方が多いようですが、笏とは元来、男性の官人が装束を着用した際に、威儀を整えるために持ったもので、特に神職専用のものではありません。
笏は中国より伝来したものであり、前漢の時代に著された「准南子(えなんじ)」に、周の時代、武王が殺伐とした気風を改めるため、臣下の帯剣を廃し、その代わりに笏を持たせたとあるのが起源と言われております。その後、我が国でも文武天皇の大宝礼において、初めて笏のことが見られます。
笏の字は、本来「こつ」と読みますが、その音が「骨(こつ)」と通じるため、これを忌んで「しゃく」と呼ぶようになりました。この材質も中国では身分に応じて、象牙を用いた牙笏(げしゃく)や玉、鯨骨、竹などで作られましたが、我が国では、礼服の際の牙笏のほか、木で作られた木笏が専ら用いられてきました。中でも飛騨の位山で伐採された櫟(いちい)の木から作られた笏が、一位(いちい)の位に通じる縁起物として特に珍重されましたが、他にも桜・杉・榊・樫などの材質が用いられています。
笏の使途については、朝廷の儀式や神拝の際に用いるほかに、必要事項を記した笏紙を内側に貼り付け物忘れに備えるとすることや、履(くつ)の位置を直すために用いたりなど文献にはさまざまなことが記されております。
神職が笏を用いたのは、天平神護二年(七六六)に伊勢の神宮の禰宜が許されて以来のことで(『大神宮諸雑事記』)、次第に諸国神社の神職へと広まっていきます。現在でも、神社本庁の「神職の祭祀服装に関する規程」には、男性神職の場合、正装・礼装・常装ともに木笏を用いるとあります。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年七月二十四日
- 第二五六三号
お祭りで神職の作法を見ていると足の運び方が気になりました。何か決まり事があるのでしょうか。
お祭りにおける神職の作法は、神様に対する敬意が具体的な形として表されたものとなっており、神様に奉仕する場合、いくつかの原則に基づいて作法がおこなわれています。
この原則の一つとして、お祭りがおこなわれる場合の位次に基づくものがあり、その位次は御神座を中心とした上下関係から決められます。
まず一点は御神前に近きを上位(尊き)とし、遠きを下位とするものであり、もう一点は御神座とその正面方向の延長線上である正中(せいちゅう)を最も上位(尊き)とし、神前に向かって右を次とし、向かって左をその次とするものです。
具体的な作法を見ると、一般的には「進下、退上、起下、座上(進む時はまづ下位の足から、退くときは上位の足から、起つときは下位の足から、座る時は上位の足から動く)」という作法で動作をおこないます。
一方、祝詞奏上や玉串拝礼など御神座と向かい合うような所作、つまり正中における作法は別の定めとなります。この時の動きは「進左、退右、起右、座左(進む時はまづ左の足から、退くときは右の足から、起つ時は右の足から、座る時は左の足から動く)」となります。
他に神職が階段を昇降する時の作法は、正中を避けて下位の足から一歩づつ昇降して両足を揃えるというものです。これは神様に対して非礼とならぬよう慎重に足を運ぶ作法であり、古代中国においても拾級聚足(しゅうきゅうしゅうそく・『礼記・曲礼』)という同様の作法を見ることができます。
以上のことを基本に神職は作法をおこないますが、一社の故実により慣例がある場合や、社殿の構造などによりやむを得ない場合は、それぞれに応じた作法をおこなうこととなります。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年五月二十八日
- 第二六〇二号
神職が履いている靴について教えて下さい。
御質問の靴は、桐材をくりぬくようにして作り、漆で黒く塗られており、「浅沓(あさぐつ)」と呼ばれています。
現在、神社本庁の定める「神職の祭祀服装に関する規程」によれば、神職は大祭の場合の装束である衣冠をはじめ、中祭の場合の斎服、小祭・恒例式の場合の狩衣・浄衣など、全ての祭祀の装束に、この浅沓を用いるとあります。
浅沓は、大宝令において、礼服・朝服の着用に際して用いられた鳥皮履(くりかはのくつ・うひり)が変化したものともいわれ、鳥皮履と同様に革製の黒漆塗りのものでした。その形は名称の通り、足の爪先から甲にかけてを沓に差し込み、足首のくるぶし以下の部分を覆う浅い構造のもので、後に革製ではなく木製のものへと変化していきました。
当初は、浅沓に対して深沓という黒漆塗革製のブーツのような形の沓があり、儀礼の場や雨天などの際に使用されました。
しかし、『延喜式』式部省上に「およそ神事及び斎会のところには、深履を着くることを得ざれ」と見えるように、浅沓が一般的に用いられるようになります。これは、祭祀が次第に殿内でおこなはれるようになっていったためであり、また奉仕するものが直接手を使わずに沓を着脱する必要性からも深沓の使用がなくなり、神事には専ら浅沓が履かれるようになったのです。
さて、古くからの神事の所作の中に「沓の揖(ゆう)」という名の作法があります。これは神事に関わるものが庭上において祝詞座や拝座である軾(ひざつき)に着く時、沓を着脱するに際して一揖(軽く一礼をする)するものです。今日、祭りが殿内でおこなわれ、沓の着脱がない場合でも、軾に着座する前にその名残としてこの「沓の揖」が立ったままでの小揖としておこなわれ、立礼においても、「小揖の後三歩進んで深揖」の小揖として残っています。
なお、略儀の場合や装束を着用しない時には、浅沓ではなく、動きやすい履物として草履や下駄が用いられます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年九月二十四日
- 第二六一八号
玉串の意味や由来、その語源などについて教えて下さい。
玉串の捧げ方などは既に第二四四一号で回答致しましたので、今回は特に玉串自体の意味や由来、語源などについて触れてみたいと思います。
玉串は神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等の神饌と同様の意味があると考えられています。しかし、神饌と異なる点は、玉串拝礼という形で自らの気持ちをこめて供え、お参りをするということです。勿論、神饌も注意して選び、心をこめてお供えをしますが、玉串は祭典の中で捧げて拝礼することから、格別な意味を有するものであることが分かります。
『神社祭式同行事作法解説(神社本庁編)』では玉串を捧げることを「玉串は神に敬意を表し、且つ神威を受けるために祈念をこめて捧げるものである」と解説されています。
玉串の由来は、神籬(ひもろぎ)とも関連して『古事記』の天の岩戸隠れの神話に求められるものといわれています。すなわち天照大御神の岩戸隠れの際に、神々がおこなった祭りでは天香山の真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだことが記されています。
その語源には幾つかの説があり、本居宣長は、その名称の由来を神前に手向けるため「手向串(たむけぐし)」とし、供物的な意味を有するものと解しています。また平田篤胤は、本来は木竹(串)に玉を付けたものであったために「玉串」と称したと述べています。このほか、六人部是香(むとべよしか)は真榊が神霊の宿ります料として、「霊串(たまぐし)」の意があるなどとしており、各説に玉串の意味付けや由来を根拠とする解釈を見ることができます。
こうしたことから玉串は神籬と同様に神霊を迎える依代であり、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祭られる神と祭る人との霊性を合わせる仲立ちとしての役割を果たす供物であるということができるのではないでしょうか。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年五月二十七日
- 第二六四九号
祭典の際に神職が頭に被る冠について教えて下さい。
神職が祭典に際して被るものには、冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)あります。
神社本庁が定める祭祀服装の規程では、冠は大祭の際に著装する衣冠(正装)、中祭で著装する斎服(礼装)に用いられます。
これに対し烏帽子は、毎月おこなわれる月次祭などの小祭や私的な祈祷を奉仕する際に著装する狩衣や浄衣(常装)に用いられます。
冠の巾子(こじ)と簪(かんざし)は、現在では装飾となっていますが、元々は髷(まげ)を収めて簪でとめ、その落下を防いだものです。現在ではこれに代わり掛緒(かけを)という紐で固定します。また、後部より伸びる特徴的な「纓(えい)」は、冠がまだ布帛の被り物であった時代に、巾子に髷を収めて被った際、根元を締めた紐の余りを背後に垂れ下げたものの名残です。纓は普通、背後に傾斜して垂らしますが(垂纓)、天皇陛下の場合は真っ直ぐに上を向いた立纓(りゅうえい)となっています。
烏帽子は冠の略式で、鳥の羽色と同じ黒塗りの帽子を意味しています。烏帽子には現在、神職が狩衣・浄衣著装に際して被る立烏帽子の他、烏帽子の上部(峯)が風によって折り返された形の風折(かざおり)烏帽子など、多様なものがあります。
大陸制度の輸入だった冠服の制度が現在の形に改められていくのは、菅原道真の遣唐使廃止の建議により、我が国独自の文化が栄えた平安時代以降の国風文化の影響によるものです。今でも礼服(らいふく)に変わって、束帯(そくたい)が公務の装束として用いられるようになり、それまでの柔らかな柔(なえ)装束へと変化していきます。これに合わせて冠も硬化し、現在のような固い漆塗りのものとなりました。
女子の神職についても定めがあり、正服(正装)は身分に関わりなく、白色の日蔭糸(ひかげいと)と心葉(こころば・装飾の造花)を付けた金地の釵子(さいし)を頭部にのせます。斎服(礼装)も同様に釵子ですが、心葉を省いたものを用い、また、常服・浄衣(常装)の場合は額当(ぬかあて)が用いられています。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年十一月十一日
- 第二六七一号