行事
- 六月と十二月の三十日に行われる大祓につて教えてください。
- 夏祭りや例祭には神輿や山車の渡御がおこなわれますが、この意味について教えてください。
- 七五三参りの起源や意味を教えてください。
- 毎年十一月二十三日に行われる新嘗祭(になめさい)について教えてください。
- 節分の行事について教えて下さい。
- 三月三日の節句行事について教えて下さい。
- 家庭などを新築する際に地鎮祭をおこないますが、どのような意味を持った祭りなのでしょうか。
- 厄年には神社で厄払いをしますが、この意味について教えて下さい。
- 神前結婚式はいつから始まったのですか。その由来などについて教えて下さい。
- 初宮参りの意味などについて教えて下さい。
- 更衣祭(ころもがえのまつり)について教えて下さい。
- 二月十七日におこなわれる祈年祭(きねんさい)について教えて下さい。
- 神事の祭におこなわれる餅撒きの意味について教えて下さい。
- 安産祈願やお食い初めなど、出産と育児に関する行事について教えて下さい。
- 社殿の竣功奉祝祭のときに稚児行列がおこなわれますが、この意味などについて教えて下さい。
- 初午(はつうま)について教えて下さい。
六月と十二月の三十日に行われる大祓につて教えてください。
大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、その他災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています。
こうした祓ひは、記紀神話に見られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がおこなった禊ぎ祓(みそぎはらい)を起源とし、宮中においても古くより大祓が行われてきました。中世以降、各神社で年中行事の一つとして普及し、現在では恒例式として多くの神社で行われています。
年に二度行われますが、六月の大祓を夏越し(なごし)の祓ひと呼びます。人形(人の形に切った紙)などを用いて、身についた半年間の汚れを祓い、古書には無病息災を祈るため、茅や藁を束ねた茅輪(ちのわ)を神前に立て、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延というなり」と唱えたことが記されています。又十二月の大祓は年越しの祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために同様の祓ひを行い、心身を清めるのです。
私たちにとってその年々の節目に行われる大祓は、罪や汚れを祓うとともに、自らを振り返るため の機会としても必要なことではないでしょうか。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年六月二十九日
- 第二四六五号
夏祭りや例祭には神輿や山車の渡御がおこなわれますが、この意味について教えてください。
各地の神社では一年か、何年かに一度(もしくは何度か)の祭に伴い、神輿や山車の渡御がおこなわれています。 普段は杜深くお鎮まりになっている神様が、この時には神輿や山車にお遷りになり、氏子の手により氏子地域を巡行してゆくのです。この祭により神と人とが一体となり、人々は祭を通じて活気を取り戻し、神様もこうした人々の姿をみて喜び、渡御する地域の各に家々御神徳を与えてくださると信じ等れています。
渡御祭については、それぞれの神社により性格も異なってきますが、いくつかに区分してみると一つには神様が初めてその神社に迎えられ、祭られるようになった事跡や歴史的な事実を繰り返し行うもの、氏子区域や神様に縁故のある地域を巡るもの、御霊会などの疫病消除の行事が恒例化したもの、神虜を慰めるためにおこなうものという分け方ができます。
また、特色ある渡御祭の例を挙げてみると、祇園祭などに見られる神輿に山車や屋台が伴って巡行するもの、海浜や川辺などに渡御する「浜降祭」や「神輿洗い」、神輿を船に乗せて海上や川を渡御する「御船祭」など数々の勇壮な祭があります。
日本はよく祭好きであると言われますが、各地で行われているこうした祭が徐々に盛んとなっていく様子を見ると、祭が地域の活性化に果たす役割は、今も変わらず受け継がれていると感じます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年八月三十一日
- 第二四七三号
七五三参りの起源や意味を教えてください。
十一月十五日に晴れ着で着飾った子供が神社に参詣することを七五三参りや祝いなどと称し神様に今まで無事に過ごしてきたことに感謝し、今後も健全健やかに成長することを祈ります。
この行事については、三歳の男女の場合は髪置と言い頭髪を伸ばし始めることを、五歳の男子の場合は袴着と言い初めて袴を着用することを、また七歳の女子の場合には帯解と言い幼児用の紐を解き大人と同じ帯を用いることを表し、子供の成長を社会的に認知するためにおこなわれてきた通過儀礼を起源としています。江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部に置いて現在のような華やかな風習となりました。
七・五・三・という歳の数については、これが縁起のよい陽数であることに結びついたものであり、また十一月十五日の日取りについては天和元年(一六八一)のこの日に、五代将軍綱吉の子息徳松の髪置祝いがおこなわれたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日に当たるそうです。
神社への参詣は江戸時代にも行われましたが、明治以降は更に盛んとなりました。これは子供が七歳のお祝いで氏神さまに参詣したとき、神社から氏子札が渡され、正式に氏子の仲間入りができるようになったことからです。よく「七つまでは神の子」と言いますがこの時から一人前の人格として扱われるようになったのです。
地域によってはお祝いの子供が神祭りで重要な役割を果たしたり、正月や例祭日に神社に参詣したりなど風習もさまざまですが、親が子供の成長を願う気持ちには変わりはないようです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年十月二十六日
- 第二四八一号
毎年十一月二十三日に行われる新嘗祭(になめさい)について教えてください。
毎年この日には、天皇陛下がその年の新穀を神々に御親供なされる新嘗祭が、宮中・神嘉殿(しんかでん)においておこなわれています。
古くは干支に依っていたため、日数が定まっておらず、十一月の下の卯の日、三卯まであれば中の卯の日を選んで祭りが行われました。これが明治六年新暦の採用から、毎年十一月二十三日となり、同年の太政官布告で紀元節や天長節と共に定められました。戦後、この日は「勤労感謝の日」と改称され、勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日として国民の祝日となりましたが、単なる勤労感謝の日と意味が違うことは、その起源から明らかなことです。
新嘗祭の起源については、日本書紀神代巻で天照大御神が「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂(ゆにわのいなほ)を以てまた吾が兒(みこ)にまかせまつるべし」と仰せになり、皇御孫命(すめみまのみこと)の降臨に際して、斎庭の稲をお授けになったことに遡る事ができます。
高天原で育てられていた穀物の穂が、皇御孫命により初めて葦原中国(あしはらのなかつくに)でも栽培されこれが我が国における農業の事始めとなりました。
この御神恩に対する感謝の祭として、天皇陛下(皇御孫命)御親ら、五穀豊穣を神々に御奉告せられるのが新嘗祭であり、これに倣って全国の神社においても新嘗祭が執り行われているのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年十一月十六日
- 第二四八三号
節分の行事について教えて下さい。
一年を二十四に分ける節気のうち、四季の節目を指す立春・立夏・立秋・立冬。この内でも、特に冬(陰)から春(陽)に移り変わる立春が、節気による正月節として重視されたため、一般的には立春の前の日を節分と呼んでいます。
節気と旧の暦月では差異があり、旧暦でみると、十二月中旬から一月中旬までの時期に節分が廻ってきます。また現行歴によると二月三日・四日がこれに当たり、この日には一年間の無病息災を祈る節分行事がおこなわれます。
この行事は、古くは中国でおこなわれていたものであり、我が国に伝来した当初は、大儺(たいな)と呼ばれておりました。文武天皇の御代(七〇六年)に、全国で疫病が蔓延したため、宮中において初めて大儺が執行され、その後、疫病の原因と考えられた鬼(陰)を追い払うために、暦月による十二月晦日におこなわれました。
当時の大儺は、儺人(なひと)と呼ばれる役目の者が、方相氏(ほうそうし)の仮面を付け、桃の弓・葦の矢・戈といった武具を持ち、「鬼やらふ」と歓呼しながら目に見えぬ鬼を追うものでしたが、やがて大儺から追儺(ついな)へと名称が変わるにつれて、本来鬼を追う儺人が、鬼のような仮面を付けていたため、逆に目に見える鬼として追われるようになりました。
室町時代以降、神社や民間でもこれに倣い、現在のように節分の日に定めて、豆を撒きながら鬼を払い、福を迎える祭事としておこなわれ、今日に伝えられています。
このように行事内容や時期などに変遷もありましたが、新年の無事を祈る人々の篤い願いには変わりはありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年一月二十五日
- 第二四九二号
三月三日の節句行事について教えて下さい。
元来、節句とは皇室の年中行事である節日に、天皇陛下に供される食事のことを意味し、この晴れの食事を供する日を節句と呼ぶようになりました。我が国では、縁起のよい陽数(奇数)の重なる五節句が、特に重視されてきました。
その中でも三月三日の節句は、元々三月上旬の巳(み)の日におこなわれていたため、上巳(じょうし)の節句と呼ばれ、節句の起源である古代中国においては、この日に水辺にて身を清める風習がありました。
我が国では、古くは宮中などで曲水の宴が催されておりました。この宴では酒盃を流水に浮かべて、盃が自分の前を通り過ぎるまでの間に、詞歌を詠むなどの遊びがおこなわれましたが、これには流水による祓いの意味もあったようです。
しかし近世以降、女児の健やかな成長を祝う行事へと変わっていきます。女児がいる家庭では雛人形を飾るため、この節句は雛祭りと呼ばれるようになりました。
雛人形は、元来、身体に付いた穢れや災厄を移して、河川や海に流す人の形をした形代(かたしろ)に由来すると言われています。現在でもこの節句に、流し雛と呼ばれる形代により祓いをおこなっている地域があり、祓い行事としての意味合いが残っています。
雅やかな宮廷の様子を模倣した雛人形は、貴族の女児が遊んだ人形に由来するとも言われ、お内裏様と呼ばれる男女一対の雛は、天皇・皇后両陛下の御姿を模したものです。
現在の節句行事である雛祭りは、庶民の皇室に対する敬慕の情と、娘の成長をお内裏様のようにと願う親心が表されていると言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年二月二十二日
- 第二四九六号
家庭などを新築する際に地鎮祭をおこないますが、どのような意味を持った祭りなのでしょうか。
地鎮祭(ぢちんさい)とは、建物の新築や土木工事の起工や、新たに墓所を設ける際などに、その土地の神様を祀り、工事の無事進行・完了と土地・建造物が末永く安全堅固であることを祈願するために、おこなわれる祭りです。
一般には「ぢまつり」などとも呼ばれ、国土の守護神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と、その地域の神様である産土神(うぶすなのかみ)、またその土地の神々である「此の地を宇志波伎坐(うしはきます)大神た等」をお祀りします。
このお祀りは、神社でおこなわれる例祭や新嘗祭などの祭儀とは異なり、諸祭に位置付けられるもののため、地域や時に応じて祭りの仕方が異なる場合もあります。
基本的な祭儀の流れは神社の祭儀とほぼ同様ですが、特に地鎮祭を特徴づけることとして三つの行事がおこなわれます。一つは祓いの行事であり、四方祓いの儀と称して、祭場四方の敷地を大麻で祓ったり、半紙と麻を切って作った切麻(きりぬさ)などを撒き、祓い清めます。
二つ目は起工式の行事であり、刈初穿初(かりそめうがちぞめ)の儀と称して、施主・施工者が忌鎌・忌鍬・忌鋤などにより、斎砂を用いて草を刈り、地を穿つ所作をおこない、神様に工事の開始を奉告します。
三つ目は供物の行事であり、鎮物埋納の儀と称して、神霊を和め鎮めるために鎮物の品を捧げて、工事の無事安全を祈念します。
土地の神様に敬意を払い、その土地の使用を求めて、工事の安全と生活の平安を祈願するという祭りの意味は、まさに日本人の生活習慣における伝統や信仰に基づいたものと言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年四月十二日
- 第二五〇二号
厄年には神社で厄払いをしますが、この意味について教えて下さい。
厄年の年齢は、人の一生の中でも、体力的、家庭環境的、あるいは対社会的にそれぞれ転機を迎える時でもあり、災厄が起こりやすい時期といわれ、忌み慎みまれています。またその年に当たっては、神様の加護により災厄から身を護るため、神社に参詣をして、厄を祓う厄祓(やくばらい)の儀(厄除け)がおこなわれます。厄年の年齢は「数え年」で数え、地域によって多少異なることもありますが、男性が二十五・四十二・六十一歳、女性が十九・三十三・三十七歳などをいい、この年齢の前後を前厄・後厄と称します。
この中でも男性・四十二歳と女性・三十三歳を大厄として、特に意識することが多いようです。 数え年では、新年を迎える正月に、新たに年齢を一つ重ねますので、この年齢が変わったときに厄祓をおこなうことが多いようですが、これに関係なく誕生日など良き日柄を選び、参詣をする場合もあります。また氏神神社の祭礼にあわせて、厄年の人々が神事を奉仕し厄祓いをする例も各地にあります。
本来、厄年は長寿を祝う還暦(六十一歳)や古希(七十歳)などの年祝いと同じく、晴れの歳と考えられておりました。厄年を迎えることは、地域社会において一定の地位となることを意味し、宮座への加入や神輿舁きなど、神事に多く関わるようになります。このため心身を清浄に保ち、言動を慎む物忌(ものいみ)に服する必要があったわけです。厄年の「厄」は、神様にお仕えする神役の「役」であるといわれるのも、こうした理由によるものです。
現在では、災難が多く生じる面が強調され、その禁忌の感覚が強くなりましたが、七五三や成人式、年祝いなどとともに、人生における通過儀礼として、大切に考えられていることには変わりありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年九月十三日
- 第二五二二号
神前結婚式はいつから始まったのですか。その由来などについて教えて下さい。
結婚式は数多い人生儀礼の中でも、重要な慶事の一つに数えられており、新たに家庭を築くという意味合いにおいても、意義の深い儀礼であるということができます。
現在のような神社における結婚式の形は、明治三十三年五月十日、皇室婚嫁令により皇太子であった大正天皇と九条節子姫(貞明皇后)が、宮中賢所大前において取りおこなわれた御婚儀が、大きな影響を与えております。
よく三十四年、この御婚儀に基づき定められた神前結婚式の次第は、一般でも日比谷大神宮(現・東京大神宮)においておこなわれ、全国各地に普及するようになりました。
こう説明すると神社における結婚式は、明治時代、新たに創出された儀礼のように受け取られることがありますが、儀礼の内容を見ると、各家庭を式場としておこなわれてきた伝統的な婚儀の形を参考としていることが分かります。
この形は家庭の床の間に、伊弉諾尊・伊弉冉尊の掛軸や、自ら信仰する御神名、また縁起物の絵画の掛軸などを飾り、その前に御饌御酒を供え、お供えをした御酒三三九度により新郎新婦が戴くことにより、夫婦の契りが結ばれるという信仰に基づくものです。後に家庭から神社へと式場が移っても、この考えには変わりがありません。
現在の神前結婚式は、家庭における婚儀の形や諸礼家の作法を集大成し、我が国の伝統的な考え方を継承したものと言うことができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年九月二十七日
- 第二五二四号
初宮参りの意味などについて教えて下さい。
子供の誕生に際しては、命名やお七夜、お食い初めや初節供など、生育の無事を願うさまざまな行事がおこなわれます。こうした中でも、初宮参りは初めて氏神様に参詣することで、新生児が公的な場所に外出する最初の機会ということもあり、華やかにおこなわれる行事となっております。
初宮参りの時期については、男子が誕生後三十一日目、女子が三十二日目に詣るのが一般的のようで、この時期は母子の産屋明けの時期であるともいわれております。しかし、百日目のお食い初めでおこなうところもあるなど、地方によって日時が異なり、必ずしも一様ではありません。
現在では特に厳密ではなく、各地方で伝えられた期日後の良き日を選んでお参りする方が多いようです。
初宮参りの意味については、一つは氏神様にお参りすることにより、誕生した子供を氏子の一員として承認してもらうこと。二つ目は、未だ生命が不安な状態にある新生児が、氏神様の大稜威(おおみいつ)により力強い生命力を得て、無事に生育することを祈願すること。また三つ目は、子供が産土神(うぶすながみ・氏神様)の御分霊を賜り、この世に生を享けたとする信仰に基づき、これに感謝をするという意味があるといわれています。
初宮参りの際に、魔除けと称して子供の額に紅で印を付けるなど、呪術的なことがおこなわれたり、産の神であると言われている便所神(かわやがみ)をお参りするなど、地域によりさまざまな風習が見られますが、子供の健やかなる生育を祝福する行事であるということには変わりありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年十月二十五日
- 第二五二八号
更衣祭(ころもがえのまつり)について教えて下さい。
更衣祭とは、神様が着けられるられる神御衣(かんみそ・おんぞ)を新たに調進し、古いものと取りかえる祭りです。年に二度おこなわれる場合は、我々の更衣の時期と同様に、季節の変わり目である夏の初めに夏の装束を冬の初めに冬の装束を奉り、また年一度の場合は、例祭に先立って斎行されることが多いようです。
『古事記』や『日本書紀』に、天照大御神が御自身で装束をお作りになられていることが拝見できるように、衣の奉献は衣食住のひとつとして古くから神事と深くかかわっており、その代表的な祭事として、伊勢の神宮の神御衣祭(かんみそさい)があげられます。
毎年五月と十月に皇大神宮(内宮)と荒祭宮に和妙(にぎたえ=絹)と荒妙(あらたえ=麻)が反物の形で奉られます。神宮の祭祀の中でも古い由緒を持つ祭りで、大神様のお姿を装束の形で現すことは畏れおおく、またお気に召して戴けないとの理由から、反物のままで御糸と縫い針を添えてお供えするとのことです。
更衣祭は、熱田神宮や賀茂御祖神社、太宰府天満宮など、全国の神社にみることができます。また更衣祭以外でも、神前に布帛などの幣帛を奉ることは、一説に神御衣を作るための料を供えることであるとも考えられているようです。
人々が季節とともに衣類を変えるのと同様に、毎年欠かさず、神々に新たな装束を奉るということの理由の一つには、さらなる神威の発揚を期待するという人々の篤い願いがこめられているように思われます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年十一月二十二日
- 第二五三二号
二月十七日におこなわれる祈年祭(きねんさい)について教えて下さい。
祈年祭は「としごいのまつり」とも称し、収穫感謝祭である新嘗祭と対になる形で、古くから重要な祭祀とされてきました。年の始めにあたって、五穀豊穣と国家安泰を神々に祈る祭りであり、宮中三殿・伊勢の神宮をはじめ、全国各地の神社でおこなわれています。
奈良朝以来の律令制下では、規定されている祭祀に際して、全国神社(官社)に幣帛が共進されておりました。各神社では、それぞれの祭祀により幣帛の有無や、内容の差異がありましたが、特に祈年祭の場合に限り、重要な祭祀として、総ての官社に幣帛が捧げられています。この官社には、神祇官が祀る官幣社と国司が祀る国幣社、さらに名神大社・大社・小社といった区分があり、平安時代中期成立の『延喜式』神名帳には、官社として三千百三十二座の神社が掲載されています。
『延喜式』(官一・四時祭上)には、祈年祭で供える幣帛の品目も挙げられており、官幣大社の場合、絹・麻・木綿といった布帛の他、弓、楯、酒、鰹魚、干し肉、海菜などさまざまな奉献物が供えられていることが分かります。また祭りにあたり、厳重な物忌(斎戒)が求められており、唯一の大祀である大嘗祭を除き、最も重儀である中祀となっています。
その後、律令制の衰微や戦乱などにより、祈年祭の執行も大きな影響を受けましたが、明治初年の神祇官復興に至り、再び重要な祭祀として位置付けられるようになりました。現在でも「神社祭祀規程」に、祈年祭を大祭として掲げているように、祭祀執行の意義は往時といささかの変わりもないと言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年一月三十一日
- 第二五三九号
神事の祭におこなわれる餅撒きの意味について教えて下さい。
御質問では例祭に餅撒きがおこなわれるとのことですが、この他にも上棟祭、厄祓いや年祝いなどに際して餅撒きがおこなわれることがあります。
餅は神饌として御神前にお供えされたり、年中行事に深い関わりを持つハレの日の食べ物として神聖視されてきました。正月に一年の無病息災を祈り、餅を食べる歯固めの習俗が、既に平安時代の貴族社会に見られることなどからも、餅撒きなど餅に関する儀礼も古くからおこなわれていたと考えられます。
餅撒きの意味については、幾つかの意味が考えられます。建築儀礼の一つである上棟祭では、散餅散銭の儀と称して、建物の屋上より土地の四方に向かって餅や貨幣が撒かれます。これは土地の神に対するお供えの意味があるといわれています。
また厄祓いでの餅撒きでは、餅を撒くことにより、厄を祓うことができるとも考えられているようです。厄年に厄餅と称する餅を道端に供え、通りがかりの人に持ち帰ってもらうことにより厄祓いをおこなうという地方もあるようで、これも同じ趣旨のことといえます。
このような餅の持つ霊的な力が信仰と結びついた事例は、正月に供えられる鏡餅に年神が宿られ、鏡開きにこれを食することで生命の更新が図られると考えられていることや、生後一年目の誕生日の子供に、餅を背負わせて健やかなる成長を祈る初誕生の儀などさまざまな儀礼を見ることができます。餅を食べると力が付くとの考えから力餅と称したり、また雛祭りの菱餅や端午の節句の柏餅、旧暦十月の亥の子餅などさまざまな餅があり、まさに我々日本人の生活と密着な関わりを持った食物と言うことができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年五月二十九日
- 第二五五五号
安産祈願やお食い初めなど、出産と育児に関する行事について教えて下さい。
妊娠や子供の誕生、成長の過程で、子供が無事に産まれ、丈夫に育つことを願うさまざまな産育に関わる行事がおこなわれています。 妊娠五カ月目(地域によって日数に相違)の戌の日には、帯祝いと称して、妊娠の腹に木綿の布で作られた腹帯(岩田帯)を巻きます。
これを戌の日におこなうのは、犬は多産ということにあやかるためや、この世と来世を往復する動物と考えられていること、また、よく吠えて家を守るため邪気を祓う意味があるといわれています。また、腹帯には胎児を保護する意味がある他、胎児の霊魂を安定させるなど信仰的な意味もあるといわれ、神社で安産祈祷を受けたものを用いることが多いようです。皇室においても、一般の帯祝いと同様の「着帯の儀」があり、御懐妊五カ月目の戌の日に、「内着帯」(仮着帯)をおこない、九カ月目の戌の日に正式な「着帯の儀」がおこなわれます。
この儀式に用いられる帯は、まづ、宮中三殿にお供えし、着帯が奉告された後に着帯がおこなわれます。妊娠中には日常と比べて多くの禁忌があります。葬式に参列してはならないことや、火事を見てはならないこと、この他、食べ物については限りがないほどの制約が設けられており、これらの禁忌は妊娠・出産という緊張状態にある妊婦と胎児の体を気遣ってのことであると考えられます。
さて、出産の後も新生児に対するさまざまな行事がおこなわれています。生後三日目(地域によって日数に相違)に産湯を浴びさせますが、この湯に塩や酒を入れると風邪をひかないといわれております。これは子供の身体を清めるとともに、発育を願う意味もあるようです。また、七日目のお七夜には、子供の命名をして親類や隣近所の方などを招いてお祝いの席が設けられます。この際に名前を書いた紙を神棚や床の間に貼り、家の神様に家族の一員としてお守りを戴くよう奉告をします。
生後三十日前後に、氏神様をお参りすることを初宮参りといい、神様のお力によりこの世に生を享けたことに感謝するとともに、氏子の一員として氏神様に承認戴く行事です。
また、百日前後にお食い初めといい、祝いの食事を食べさせる行事がありますが、これも一生食べ物に不自由なく過ごせるようにという願いがこめられたものと考えられています。これらの行事は、単に誕生や成長を祝うのみならず、家族や社会の一員としての承認を得るということからも重要な意味を持った通過儀礼ということができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年六月二十五日
- 第二六〇六号
社殿の竣功奉祝祭のときに稚児行列がおこなわれますが、この意味などについて教えて下さい。
稚児は社殿の竣功奉祝祭のみに限らず、神社の祭礼において重要な役割を果たしてきました。
神道では、神が稚児の姿、つまり童形をかりて出現するという信仰があり、これに基づき、七歳から十二歳くらいまでの男女の童子が、神の依代(よりしろ)として祭りの際に選ばれて、稚児舞と称せられる舞踏や、化粧をして美しく飾り、祭りの行列に加わったりするなど、神事に関する奉仕をおこなってきました。
古くは、伊勢の神宮をはじめ、賀茂・鹿島・香取などの大社において、物忌と称する童男・童女が禁忌を守り專ら神事のみに奉仕する役目を果たしており、また、諏訪大社では大祝(おおはふり)という職の童男が神そのものであるとして、人々から崇敬されていました。
現在でも伊勢の神宮では地鎮祭などの御遷宮に関わる諸祭において、童男・童女が御奉仕をおこなっています。また、八坂神社の祇園祭においては、鉾巡幸の際、稚児が長刀鉾に乗り、巡幸の開始に注連縄を剣で切り落とすという役割を担っています。
この稚児は、氏子の中から家庭・資質・健康などを考慮して選ばれ、祭りの前に騎馬で社参し、以後、祭りの日まで自宅に籠もり、心身ともに清浄に心がける斎戒が課せられます。
こうしたことは、童子が大人より神に近い清浄なる存在として、祭礼奉仕にいかに重い役割を果たしているかを窺わせます。
これは、祭礼において親に伴われて参加する稚児舞や、御質問の稚児行列の場合も、基本的には同様の意味であり、また、祭りを華やかに奉仕するという意味をも有するといえます。一所懸命に奉仕する愛くるしい稚児の姿には、必ずや神々の御神慮も和むのではないでしょうか。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年八月二十七日
- 第二六一四号
初午(はつうま)について教えて下さい。
二月最初の午の日に(今年は二月二日)、京都の伏見稲荷大社をはじめとし、全国各地の稲荷神社などでは初午祭がおこなはれます。
初午の日は、和銅四年(七一一)二月のこの日に稲荷神が初めて三ケ峰(稲荷山)に降臨なされたことにちなむもので、このことが稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社の鎮座の由来ともなっており、全国の稲荷神社では特に重要な日として祭事がおこなわれています。
初午の行事は中世からの稲荷信仰の普及とともに、庶民の間で全国的に広まりました。この時期は農 事始めともなっているため、その年の五穀豊穣や、養蚕地帯では繭玉を供えて養蚕の祈願をおこなったり、漁民の間では豊漁の祈願がおこなわれたりします。また、現在では商売繁盛・事業繁栄といった御利益などを願う参詣者で各地の神社が賑わいます。
『山城国風土記』逸文には、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が稲を積み上げるばかりに富裕でしたが、その富に奢って、餅を的として矢を射たところ、たちまち餅が白い鳥に化して飛び去ってしまい、山の峰(稲荷山)に留まったとあり、そこに稲が稔ったため、「イネナリ」から「イナリ」の社の名がついたとあります。
その後、伊呂具の子孫がこのおこないを悔いて、稲荷山の木を家に持ち帰って神に祈り祀ったとあり、その木を植えて根づくと福がもたらせるとの伝承が記されています。これは初午の際に伏見稲荷大社にて頒布される「験(しるし)の杉」の由来となっており、この杉は各家庭に稲荷神を招来するものとして信仰されています。
稲荷神は、後に仏教の荼吉尼天(だきにてん)と習合したため、愛知県の豊川稲荷など仏教系の稲荷祠の他、家庭や企業の邸内社などでも初午の行事が盛んにおこなわれています。
神社本庁教学研究所の「祭祀祭礼データ」によれば、全国に「稲荷神社」は本社で三千五百五社、境内社が四千六百五十四社あり、広く全国的に分布しています。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十五年一月二十七日
- 第二六八〇号