祭神
- 神様の名前で同じ「みこと」という呼称でも「尊」と「命」の文字を使う場合がありますが、その違いについて教えて下さい。
- よく山の神と言いますが、山の神とは正式には何といいますか。また、どのような信仰を持った神様なのですか。
- 七福神は何故神社にもお寺にもお祀りされているのですか。
- 蔵王権現は弥勒菩薩、または釈迦如来の化身だと言われていますが、神道での御祭神名は何でしょうか。
- 稲荷神社の鳥居が朱塗りなのはなぜでしょうか。また、狐を稲荷神のお使いとするようになった理由についても教えて下さい。
- 災難をもたらす神を疫病神と言いますが、どのような神様なのでしょうか。
- 天満宮や天神社の御祭神である「菅原神」について教えて下さい。「菅原道真」と限定した祭神名の神社もあるため、「菅原神」とは道真公の妻子も含まれるのでしょうか。
- 神道の大国主命と仏教の大黒天とは、よく見ると画像の御姿が違いますが、両者は同じ神なのでしょうか。
- 神社や神様によって御利益がさまざまですが、どのような理由で御神徳が説かれるようになったのでしょうか。
- 稲荷神社で「正一位稲荷大明神」の幟籏を目にしますが、「正一位」とは何のことでしょうか。
- 八幡神社の起源などについて教えて下さい。
- 諏訪神社の起源や信仰などについて教えて下さい。
- 日吉神社(日枝神社)について教えて下さい。
- 神明社(神明宮)の歴史などについて教えて下さい。
- 住吉神社について教えて下さい。
神様の名前で同じ「みこと」という呼称でも「尊」と「命」の文字を使う場合がありますが、その違いについて教えて下さい。
「みこと」という呼称は、一般的に神様や身分の高い人、目上の人などに対する敬称として用い、固有名詞の後に「の」を添えて、「…のみこと」という使い方をします。 その語源は「み」を接頭語として「御事」であるとする説、また、「御言」や「御子」であるなどさまざまな説がありますが、「御言」は神様や天皇様の仰せになるお言葉、「御子」はそのお子様を示すように高貴な方を敬って使われる語であることには相違がありません。
この中でも、特に神様に用いられる場合に、ご質問の「命」と「尊」という文字を使い分ける場合があります。このことは『日本書紀』神代巻の冒頭に「至りて尊きを尊と日ひ、自餘(そのほか)を命と日ふ。並(みな)、美擧等(みこと)と訓(よ)む」とあり、『日本書紀』では、天地開闢に際して現れた国常立尊(くにのとこたちのみこと)や伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神と共に伊弉諾尊より成った月読尊(つきよみのみこと)、また天照の命を受けて葦原中国(あしはらのなかつくに)に天降った邇邇芸命(ににぎのみこと)など、神様の中でも特に至貴な神様には「尊」が、それ以外の神様には「命」が用いられています。
しかし、『古事記』にはこのような文字の使い分けがなく、すべてにこの使い分けがなされているわけでもありません。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年四月二十七日
- 第二四五七号
よく山の神と言いますが、山の神とは正式には何といいますか。また、どのような信仰を持った神様なのですか。
山の神について説明する際には、二つの点から見る必要があります。
まず一つは古典にみられる山の神です。『古事記』には伊弉諾尊・伊弉冉尊による神生みにより大山津見神(おおやまつみのかみ)が、また後の段では、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)の身体から奥山津見神(おくやまづみのかみ)のほか、七柱の神々が成ったことが記されているように、多くの山の神々の名が挙げられております。
もう一つは民間信仰における山の神です。この信仰は人々の生活と密接に関わっているため、その地域によりさまざまです。山の神に対する一般的な信仰は、春になると山から里に下がり、五穀豊穣を助ける田の神となり、秋に収穫が済むと再び山に戻る農耕神として考えられています。また山には祖先の御霊が鎮まるとも考えられ、祖霊に対する信仰とも関わっています。
林業など山の仕事に携わる人々にとっての山の神とは、多くの場合は女性神と考えられ、山を護る神であり、お産の神としても信仰されています。年の何回かの山の神の祭日に山に入ると災難に遭うなど祟りが恐ろしい神ともいわれております。また、漁業に携わる人々にとっても山は航海の上で大切な目印であり、古来より深く信仰されて参りました。
中世末以降、俗称として自らの妻を山の神と呼ぶようになったのは、山の神の神楽に巫女が杓子(しゃもじ)を持って舞ったためともいわれています。歌舞伎などに登場する「山の神」の恐ろしい姿は特に印象的です。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年五月十一日
- 第二四五九号
七福神は何故神社にもお寺にもお祀りされているのですか。
七福神といえば七人の福神が宝船に乗って海を渡っている絵画などを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。これらは福や富を呼び寄せる縁起物として、根ずよい人気があります。
七福神は聖数である七という数字に基ずき、恵比須神・大国神・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人・毘沙門天が配されています。この中でも恵比須神は、記紀神話の国産みの段で葦船に乗せて流された蛭児であり、また大国主神の御子の事代主神であるとも云われています。また大国神は、出雲の大国主神と、古代インドの神であり、仏教の守護神である大黒天とが習合した神であるとされています。
このほか、弁財天は元々インドの河の神であり、音楽を司る神様でしたが、日本に来て、宗像大社の御祭神であり、海の神である市杵島姫命と習合しました。布袋は中国の禅僧ですが、弥勒菩薩の化身とも言われており、福禄寿と寿老人は中国の道教の神、毘沙門天は多聞天とも称され、仏教の四天王としても知られています。
このように日本の神様もいれば、外来の神様もおり別々に信仰していた神々が集められ、七福神信仰として体系化されました。これには現世利益を望む一般庶民の願いがあり、宗派を越えて広く信仰されるようになったのです。
現在東京や関西などで盛んな七福神巡りに、神社もあれば、お寺もあるのはこうした理由からなのです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十年七月十三日
- 第二四六七号
蔵王権現は弥勒菩薩、または釈迦如来の化身だと言われていますが、神道での御祭神名は何でしょうか。
蔵王権現は、奈良時代に役小角(えんのおづの)によって初めて祭られました。これが奈良県吉野の金峯山寺蔵王堂で、現在でも蔵王権現三体がお祀りされており、それぞれ釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩とされています。
神名に付する「権現」という名称は、仏が日本の神の姿を“権(か)りて”、人々を救済するために我が国に“現れた”という説を述べたもので、この説は仏教を布教するための一種の方便であったことは言うまでもありません。
このような「神社の御祭神が仏や他教の神と同一である」とする「本地垂迹説」は、平安時代以降、盛んに説かれるようになり、神仏習合思想の前提ともなりました。
八幡が阿弥陀如来であり、日吉が釈迦如来・薬師如来であるなど諸神に本地仏が配され、それぞれ仏教宗派との関わりなどにより、独特の信仰として全国に広まっていきました。明治初年の神仏分離により、神社から仏教色が排されようとしましたが、人々の信仰の間には、このような神仏習合の影響が現在も残っています。
さて蔵王権現と神社との繋がりについてですが、各地にある蔵王神社や金峯(峰)神社は、蔵王権現を勧請した神社であると言われています。これらの神社の御祭神は、蔵王権現や蔵王神という神名のままであることが多く、神道の神様の名前で呼ぶときには金山の神や少彦名命などの諸説があり、神社本庁の祭祀祭礼総合調査でもさまざまな名称が見られます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年四月二十六日
- 第二五〇四号
稲荷神社の鳥居が朱塗りなのはなぜでしょうか。また、狐を稲荷神のお使いとするようになった理由についても教えて下さい。
稲荷神社は、農村部では五穀豊穣を祈る農業神として、また都市部では商売繁盛や病気平癒などの神様として庶民の篤い崇敬を受けています。さて、稲荷神社の社頭には、崇敬者から奉納された鳥居が幾重にも建てられていることがあり、殆どが朱塗りの鳥居です。
朱色は生命の躍動を表すとともに、古来より災厄を防ぐ色としても重視されてきました。このため古くは御殿や神社の社殿などに多く用いられており、稲荷神社の鳥居の朱色もこの影響によるものと考えられます。
一方、狐を稲荷神のお使いとすることですが、これは稲荷神の農耕神としての性格と関連するものと考えられます。この信仰は、イナリの語源をイネナリの訳とするなど、田の神に対する信仰と深く結びついたものでした。田の神の信仰は当然のことながら、食物神でもある「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」と繋がり、稲の稔りの季節が近くなると、山から人里近くに現れるようになる狐の姿を、人々が神聖なものとして捉えたことによると考えられます。狐は稲の豊穣をもたらす山の神の使いであり、山の神は里に降っては田の神となるため、狐は田の神である稲荷神の使いということになるわけです。
後には、食物神の総称とも言える「御食津神(みけつかみ)」が「三狐津神(みけつかみ)という記述をされることともなり、狐神に通ずることが一般的に語られることからも、稲荷神と狐の結び付きが連想されます。
この他にも、春日の鹿や日吉の猿など多くの動物が神の使いとされており、こうしたことは自然との共存を大切に考えてきた日本人の信仰によるものと言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十一年七月二十六日
- 第二五一六号
災難をもたらす神を疫病神と言いますが、どのような神様なのでしょうか。
疫病神(やくびょうがみ)とは病気などさまざまな災厄をもたらす悪神であり、疫神(えきじん)、厄神(やくしん)と考えられています。
疫神に対する信仰は古くからあり、「神祇令」には年中祭祀として鎮花祭(ちんかさい)が規定されています。これは春花が飛散する旧暦三月に、花と共に疫神が四散するのを防ぐため、大和の大神神社と摂社狭井(さい)神社でおこなわれる祭りであり、現在では毎年四月一八日に執行されています。
また毎年六・十二月の二度、都へ疫神が入らぬように都の四隅でおこなわれた道饗祭(みちあえのまつり)も、こうした信仰によるお祭りです。具体的には道祖神と称されている八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・久那斗(くなど)の三神に対する祭りでありますが(『延喜式』巻八「祝詞」)、供物に獣皮が用いられることなどから、疫神(疫鬼)が都の中に入らぬよう路上に迎えて饗応し、退散させる意味があるとも言われております(『令義解』)。
このように災厄をもたらす疫神を祭るということは、我が国独自の考え方に基づくものです。例えば宮中でおこなわれていた追儺(ついな・節分)の祭りには、大陸から伝わった当初に無かった疫鬼への饗応が見られます(『延喜式』巻十六「陰陽寮」)。また祟りをもたらす霊魂(人霊)を神霊として鎮め祭るということは御霊信仰にも見られ、丁重にお祭りすることにより災厄を防ぐ霊威ある神へと変わるのです。一年の災厄を祓うため、正月に厄神詣として厄神を参詣した風習があったのは、まさにこうした信仰によることです。
現在でも、疫神送りと称される行事が地域によっておこなわれるなど、日常生活の平穏を祈る人々の気持ちには変わりがないと言えます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十二年二月十四日
- 第二五四一号
天満宮や天神社の御祭神である「菅原神」について教えて下さい。「菅原道真」と限定した祭神名の神社もあるため、「菅原神」とは道真公の妻子も含まれるのでしょうか。
天満宮や天神社は、学問の神である菅原道真公を祀る神社として一般に知られております。北野天満宮や太宰府天満宮をはじめ、太宰府への西下の折の道真公の生前の足跡地、また御神託や縁故により祀られたものなど、道真公を御祭神とする多数の神社が全国にあります。
神社本庁の祭祀祭礼データに登録された祭神別集計を検索すると、関連の御祭神は全国で一万百二十九件祀られています。(但し、合祀等によって、一社に「菅原道真」と「菅公」の二柱を奉祀するような場合もあります)。その内、御祭神名を「菅原道真」とするのは八千六百四件、「菅原神」とするのは九百六十一件、「菅原大神」は四百八十二件、「菅原天神」が十五件、「菅公(霊)」は四十五件となります。また、これ以外に道真公と天神との結び付きにより、「天満天神」「天満大自在天神(大政威徳天神)という名称で祀られている例が七十四件あります。祭祀祭礼データでの御祭神名では、道真公以外の菅原氏の祖神や御子神は、「菅公御母堂」「菅原道真公北の方」「菅原道真公御子」「菅原是善(道真の父)」などの御祭神名で祀られています。一般に「菅公」という呼び方が道真公を指す敬称として用いられているように、「菅原神」「菅原大神」の名称も基本的には道真公のみを指すものと考えてよいのではないでしょうか。
さて、道真公がなぜ「天神さま」と呼ばれ信仰されたかについてですが、御存じの通り、道真公は右大臣となるも讒言によって太宰府で悲運の最期を遂げます。薨去の後、都では雷禍に見舞われ、道真公を無実の罪に陥れた者たちが怪死する事件がおきました。人々は道真公がこの世に怨みをいだいた御霊(ごりょう)となり、そして火雷天神になったとして、北野天満宮を創建し、神として祀るようになったのです。こうした経緯により、当初より朝廷の篤い崇敬を受け、後世でも変わらず、明治時代、各神社の社格が定められた折りにも北野・太宰府の両天満宮は、人臣を祀る神社として唯一の官幣中社に列せられました。
ちなみに明年(平成十四年)は道真公御神忌一千百年にあたるため、全国の天満宮では、式年の祭祀をはじめ、道真公に関するさまざまな催しがおこなわれるようです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年四月三十日
- 第二五九八号
神道の大国主命と仏教の大黒天とは、よく見ると画像の御姿が違いますが、両者は同じ神なのでしょうか。
「だいこくさま」は頭に頭巾を被り、右手に打出の小槌を持ち、左肩に大きな袋を背負う御姿から福徳や財宝を人々に与える七福神の一つとして広く信仰されてきました。これを仏教では大黒天、神道では大国主命としています。
大黒天は印度のマハーカーラ(魔訶迦羅)という神が起源であり、マハーは「大きい」を、カーラは「黒」を意味するため、大黒天と称されるようになりました。マハーカーラはヒンズー教の三大神の一つであるシビャ神の化身であり、破壊の神として恐れられていましたが、破壊の後には再生が巡ってくるため、豊穣をもたらす神でもありました。
また、仏教では大日如来の化身であるとされ、人を食らう悪鬼である茶吉尼天(だきにてん)を降伏させた仏法の守護神として信仰されてきました。この神は忿怒の形相を持つ戦闘神として描かれており、福神としての面影はありません。
大黒天は、仏教伝来と共に中国の寺院においては、食物を掌る神として食厨(台所)の神となり、この大黒天を留学僧であった最澄が日本に伝え、比叡山延暦寺の守護として祀りました。その一方で、比叡山の山麓に鎮座する日吉大社を同寺の鎮守で天台宗の守護神として崇めました。日吉大社の御祭神である大己貴神(おおなむちのかみ)が、大国主命と同一神であるため、一説には、この頃から大黒天と大国主命との習合が始まったといわれております。
この習合には、主として「大黒」と「大国」の字音の類似が起因していると思われます。しかし、御姿の上では、延暦寺に祀られている「三面六臂大黒天像」(伝最澄作)の厳しいお顔立ちからも分かるように、当時は完全な習合に至っておりませんでした。
これが後に、大黒天と大国主命とが同一であるという信仰が広く民間に流布するにつれて、『古事記』に見られる袋を背負った大国主命の御姿にも擬せられ、忿怒の形相をもった大黒天も、庶民に親しみやすい現在のような福神の御姿となっていきました。
ですので、元来は別の神であり、神仏習合、特に福神信仰によって、その大黒天の神格が変化して同一神に見られるようになったということができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年二月十二日
- 第二五八八号
神社や神様によって御利益がさまざまですが、どのような理由で御神徳が説かれるようになったのでしょうか。
一般の書店に行かれてお気づきになるかと思いますが、神社関連の書籍の中でも多く店頭に並んでいるのは、全国各地の神社や神様の御利益について述べられたものではないでしょうか。
我々日本人は、神々の恩恵を受けることにより、生命を保つための一切のものを戴いているという考えをもち、共同体の守り神として神々を祀り、祈ることが神道の信仰であると考えてきました。
しかしその一方で、商売繁盛や学業成就、病気平癒や開運招福などを願う個人的な祈願も、歴史や民俗学から見て、我が国の文化と深い関わりを有していることがわかります。御利益とは、日常生活の問題解決に、神々の恵みが人々に与えられることです。元々は仏教でいう現世に受ける利益を示す「現世利益(げんぜりやく)」に由来して用いられたもので、民間信仰として位置付けられています。
具体的には、穀霊神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=稲荷神社の御祭神)が、五穀豊穣の神であることから、商売繁盛の御利益に結びついたことや、菅原道真を祀る天神社や天満宮が、才子として名高い道真公にあやかることから、学業成就の御利益があることなどを見ることができます。この他それぞれの由緒や社名、特殊神事に基づいて、特別な御利益があるとする御祭神でも違う御利益があるという事例もあります。
いづれにしても、一般の人々が日々生ずる不安や苦しみから逃れたいと切実に祈る気持ちや、さらなる生活の向上を願う思いが御利益の信仰として表れたものですので、個々の御利益が必ずしも各神社や神様の御神格や御神徳の全てを表したものではありませんが、全国の神社を特徴づけ、その信仰にに深みを与えているということができます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十三年十一月十二日
- 第二六二四号
稲荷神社で「正一位稲荷大明神」の幟籏を目にしますが、「正一位」とは何のことでしょうか。
正一位とは律令制下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、官人の地位を表す等級として一位から初位(そい)の位階があり、一位から三位までがそれぞれ正一位・従一位と正・従の順に分かれ、また、四位から八位までが、正・従の他にさらに正四位上・正四位下と上・下の順に分かれ、初位のみ、正・従に代って大・少が冠され、全部で三十位の位階があります。
奈良時代中期以降、この位階が人に対してでなく、神にも授位されるようになりました。これは神階と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものでしたが、両者に直接的な関係はありません。
神階は、主に遷都・行幸の際や、天変地異や疫病蔓延などを鎮める臨時の祈願・奉賛に際して、また特に霊威の見られる神々に、朝廷から授けられました。これはそれぞれの神々に授位・進階されるもので、同じ神社に祀られている御祭神でも神々により位階が異なることもあります。
神階授位の制度では新たに他社へ勧請された神の場合、本社の神と同じ位階にはなりませんが、例外として朝廷の許可により勧請される時には、本社と同位の神階が授けられることもありました。
また、朝廷がおこなってきた神階の授位を、国司が国内の神に仮に位階を贈ったり(借位)、中世以降、諸国の神社・神職を支配した吉田家が独自に神階を発行したりするなど(宗源宣旨)、勅許による授位の原則が必ずしも守られなくなります。
さて、稲荷神社についてですが、『類聚国史』の天長四年(八二七)正月の条には、稲荷神に対して従五位下が授けられたことが見られ、その後も進階を重ね、天慶五年(九四二)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられました。
この神階は京都伏見の稲荷神社(現・伏見稲荷大社)の稲荷神に授けられたもにで、後世になると他社への勧請に際して、本社が同位の神階(正一位)を授位するようになり、正一位稲荷大明神という尊称が一般化しました。
明治以後、神階授位の制度は廃止されましたが、現在でも全国の稲荷神社で正一位と冠した奉納の幟籏を目にするには、稲荷神に対する篤い信仰によるものといえます。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年二月十一日
- 第二六三五号
八幡神社の起源などについて教えて下さい。
八幡神社には、八幡宮や八幡社と称される神社も多く、さらに地名等を冠した呼称の社も見られます。八幡神社は全国に八千七百八十六社(境内社を除く)あり、分布もほぼ全国的に見ることができます(神社本庁祭祀祭礼データ参照)。
八幡神社の起源は、大分県宇佐市に鎮座の宇佐神宮(宇佐八幡宮)を始めとします。御祭神は応神天皇(誉田別命)・神功皇后・比売神三神で、欽明天皇の御代(五四〇~五七一)、豊前国宇佐郡の御許山(おもとさん)に始めて現れ、大神比義(おほがみひぎ)によって祀られるようになりました。これが宇佐神宮の創祀とされています。
奈良時代、八幡神は聖武天皇の詔によって進められた東大寺の大仏建立を助けるため上洛し、東大寺の守護神として鎮座(現・手向山神社)、次第に仏教との習合を深めていったため、仏法守護の神として崇められ、「八幡大菩薩」の称号が奉られました。また、同時代末には和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮の託宣を受けて皇位を狙う僧道鏡の野望を阻止したことにより、皇位守護の神としての性格も強めました。
平安時代には平安、京の守護神として勧請され、都の裏鬼門(南西)の方角の男山に祀られたのが、現在の石清水八幡宮です。鎮護国家の神として朝廷の篤い崇敬を受けました。この石清水八幡宮の社前で、元服の式を挙げたのが八幡太郎として名高い源義家です。義家は源氏の棟梁として八幡神を自らの氏神、また武門の守護神として仰ぎました。
その由縁もあり、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、中心に鶴岡八幡宮を創建し、幕府の守護神として祀りました。このほか、祭神の縁故の地や宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮の神領への分祀、また源氏、殊に頼義や義家といった武将の勧請などにより各地に祀られるようになりました。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年三月二十五日
- 第二六四一号
諏訪神社の起源や信仰などについて教えて下さい。
諏訪神社(諏訪社)は、長野県に鎮座する信州一宮の諏訪大社を総本社とする神社で、建御名方神(たけみなかたのかみ)を御祭神とし、妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)を合せ祀る場合もあります。
諏訪神社は本社のみの場合(「諏訪」の名を含む社)、全国に二千六百八十五社あり、その分布は長野県を中心として中部・北陸地方に多く見られますが、それ以外でも北は北海道から南は鹿児島県まで、ほぼ全国的に鎮座しています(神社本庁「祭祀祭礼データ」参照)。
『古事記』によると、諏訪大社の御祭神であり、国つ神の大国主命の御子神である建御名方神は、天孫降臨に際して国譲りの交渉にやってきた天つ神の建御雷神(たけみかづちのかみ)と力競べをしたところ、建御雷神のあまりの霊威におそれ驚いて敗走し、信濃の国の洲羽海(すわのうみ・現在の諏訪湖)に追いつめられ、降参しました。この時、天つ神に対して国譲りをおこなうとともに、自らはこの地を出ないことを誓い、諏訪の地に奉斎されたのが諏訪大社の起源です。
総本社の諏訪大社は上社・下社からなり、さらに上社が前宮と本宮に、下社が春宮と秋宮に分かれる二社四宮の形になっています。また、上社本宮には本殿にあたるものがなく宮山を御神体山として拝み、下社の春宮では杉の木、秋宮では櫟(いちい)の木をそれぞれ御神体とするなど、祭祀の古い形態を見ることができます。
祭祀の具体的内容でも、上社・下社各宮の社殿の四隅に立てられる御柱(おんばしら)と称される樅の木の柱を、申と寅年の六年毎に新しく曳き立てる「御柱祭」など、古くからの伝統による特殊神事が数多くあります。
武田信玄が諏訪大社の社殿造営をおこなうなど、建御名方神は武勇の神としての武家の崇敬を集めました。また風雨の神、鍛冶の神、農耕・狩猟・開拓の守護神といった幅広い御神格を有したため、後世、諏訪神社は信濃国のみならず各地に奉祀され、庶民からも篤く信仰されるようになりました。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年四月十五日
- 第二六四三号
日吉神社(日枝神社)について教えて下さい。
日吉神社は、広く全国に分布しており、本社で「日吉」を含むものが一千二社、また「日枝」を含むものが五百四十七社、「山王」を含む神社が百十五社あります(神社本庁祭祀祭礼データ)。
「日吉」の社名は「日枝」とも書き、読みは「ひえ」が古訓ですが、「ひよし」という呼び方もされます。また「山王」の社名は、中国天台山の守護である天台祠になぞらへて、天台宗により用いられるようになったものです。
さて、日吉神社は滋賀県大津市に鎮座する日吉大社を総本社とします。日吉大社は琵琶湖を臨む比叡山の東麓に位置し、東本宮の主祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、『古事記』に「近淡海国の日枝山に坐す」とあるように、古くから日枝山(比叡山)の地主神として信仰されました。
また、西本宮の主祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)で、天智天皇六年(六六七)の近江大津宮への遷都の際、大和国の守護神であった三輪明神を勧請したものです。
日吉大社の歴史の中でも、平安時代からの神仏習合は特筆すべきことといえます。天台宗開祖の最澄が当地の生まれであることから、唐から帰朝の後、比叡山に寺院(延暦寺の前身)を建立しました。以後、延暦寺では日吉神を地主神、天台宗の護法神として崇め、日吉大社の東西本宮、摂末社に至るまで本地仏が配されるなど、日吉大社に対する信仰を天台教学の中に取り入れていきました。このため天台宗の全国布教とともに、日吉大社に対する信仰も広まり、その分社も全国に祀られるようになります。
明治時代、神仏分離の制により日吉大社と延暦寺の直接的な関係はなくなりましたが、今でも例祭の山王祭には天台座主(ざす)より五色の幣帛が奉られ、座主以下、随行の僧侶により神前読経がおこなわれるなど、往事の名残をうかがうことができます。
東京・赤坂に鎮座する日枝神社は、日吉大社と同じく官幣大社に列せられ、その創祀は一説に太田道灌が江戸城築城に際して鎮守として祀ったといわれております。江戸時代将軍家より鎮守として崇められ、明治以降も皇城鎮護の神として准勅祭社とされるなど、首都の鎮守として朝野の崇敬を集めております。
以上のように日吉神社は、都市や地域、また町村の守り神として各地で篤く信仰されて参りました。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年九月二十三日
- 第二六六五号
神明社(神明宮)の歴史などについて教えて下さい。
神明社は、伊勢の神宮(内宮)の御祭神である天照大御神を主神として祀る神社です。全国に本社が四千七十三社(「神明」を含む神社)、また境内社は七百二十一社(同)あり、全国に広く分布しています(神社本庁祭祀祭礼データ)。
さて、伊勢の神宮は、皇室の祖先神である天照大御神を奉斎し、その祭祀も天皇御自身が主宰者であらせられるという格別なる神社です。古来、私幣禁断の制があり、私事のための参詣や祈祷が一切禁じられ、専ら皇室・国家に関わる祈祷のみがおこなわれております。
中世以降、御師(おんし)の活躍により民衆との結び付きが深まり、各地の武家の尊崇を集めるようになりました。こうした尊崇は各地において領地(神領)の寄進という形で現れ、寄進された神領には神宮と同様に天照大御神をお祀りする小祠が設けられました。これが各地に見られる神明社の成立で、庶民の神宮に対する信仰の広まりとともに神領以外でも地域の鎮守として奉斎されるようになりました。
近世になると交通網の整備などにより、商人や農民など一般民衆の間で神宮への参詣(お伊勢詣り)が盛んにおこなわれるようになり、各地に参宮を目的とした伊勢講などの講組織が結成されていきます。特に江戸時代中期から後期になると御蔭(おかげ)参りと称して、全国各地から多数の老若男女が伊勢に参詣しました。
神明社に対する信仰は、国家の宗祠としての神宮の御神徳が各地に広がり、それぞれの地域においても鎮守としてお祀りすることにより、その恩頼(みたまのふゆ)を蒙ることができるということに基づくものです。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年十月十四日
- 第二六六七号
住吉神社について教えて下さい。
住吉神社は、全国に本社が六百十四社(「住吉」を含む神社)あり、その分布もほぼ全国的に見ることができます(神社本庁祭祀祭礼データ)。
大阪市住吉区鎮座の住吉大社は底筒之男命(そこつつのをのみこと)・中筒之男命(なかつつをのみこと)・表筒之男命(うわつつをのみこと)の三神の和魂(にぎみたま・穏やかな働きの神霊)と神功皇后を祀っています。また山口県下関市鎮座の住吉神社は、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三神の荒魂(あらみたま・荒ぶる猛々しい働きの神霊)を主神として祀ります。
この三神は『日本書紀』神代巻に、黄泉の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が身についた穢れを清めるため、川の中で禊ぎをおこなった際に生まれた神々であると記されております。
その後、神功皇后の新羅出征に際しては、住吉大神の教えと御加護により、無事に戦勝を果たしたため、長門(現山口県下関市)に荒魂を、摂津(現大阪市)に和魂を奉祀する神社を創建したのが、既述した二社の創祀であり、住吉神社の起源であるとされております。
こうした起源などにより、海上安全の守護神として信仰され、住吉大社では遣唐使派遣の際に渡航安全の祈願がおこなわれたり、また、玉体(天皇)奉護の御神徳により平安時代には朝廷が格別に崇敬する二十二社の内の一つに数えられました。
庶民からは漁業の神としてや、水に結びつくため農耕神としての信仰も集めるほか、近世以降の商業発展とともに、各業種にわたる崇敬を広く集め、商売繁盛の神などとしても崇められています。
- 神社新報 『神道いろは』より転載
- 平成十四年十月二十八日
- 第二六六九号