白石藩移住
新政府
徳川家康が江戸に幕府を開いて、長い間武家政治つづいていましたが、幕末のころ、幕府をたてなおして天皇のもとに新しい政治をうちたてようとする運動がおこり全国に広がりました。(其の中心勢力は薩摩藩(鹿児島県)・長州藩(山口県)・土佐藩(高知県)の人たちでした。新政府の中心にすわったのはこれらの人々でした。)
ついに慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷にかえすことになり(大政奉還といいます)家康以来、260年ほどつづいた江戸幕府はたおされ武家政治はおわりをつげました。
大政奉還によって、明治天皇のもとに新しい政府がうまれ、慶応四年(1868年)3月には、五か条の御誓文がしめされ、新政府の清治の方針を明らかにしました。
同じ日、新政府は国民にむかい5つの禁止令をかかげました。それは、徒党(仲間が集まること)強訴(農民が団結して訴えること)逃散(農民が税のとりたてがきびしいので他の土地へ逃げだすこと)キリスト教は禁止する、悪事をしてはいけないということでした。新政府の国民に対する政治は江戸時代とあまり変わらなかったのです。
慶応四年(1868年)9月、天皇は江戸にむけて京都を出発し、江戸城にはいりました。
また、江戸を東京都あらため、京都から皇居を東京にうつして新しい日本の首都とし、その年の9月8日この日から年号も明治とあらため明治元年とし、一天皇に1年号(一世一元)とすることにきめました。
新政府ができても、まだ地方では藩主(大名)がこれまでと同じように、自分の領地を治めていたので、新しい政治が全国にいきわたりませんでした。
そこで諸藩の兵力と勝手なふるまいをおそれた政府は、大名に領地(藩)と人民(籍)天皇に返させることで、諸藩にたいする中央政府のにらみをきかそうとしました。(版籍奉還といいます。)
まず、薩摩・長州・土佐・備前・の四つの藩が版籍奉還をねがい出て、外の諸藩も新政府への気がねからこれにならいました。
明治四年(1871年)には、藩をなくして府県をおき、新たに政府が府知事、県知事を任命しておさめさせました。(廃藩置県といいます。)
また、これまでの士・農・工・商という封建的な身分による差別をやめました。
国民はだれでもみょう字を名のることを許され、自由に住所や職業を選ぶこともできるようになって平等になりました。(市民平等といいます。)
しかし新しく華族(もとの公家や大名)・士族(もとの武士)・平民(農工商)という区別がもうけられました。
戊辰戦争
将軍徳川慶喜が、大政を奉還してからも、徳川の家臣や親類に当たる諸藩は、各地で兵をあげて抵抗しました。鳥羽・伏見の戦い、会津藩を中心とする奥羽戦争、榎本武揚が幕府の海軍を率いて函館の五稜郭にこもった函館戦争など、一年あまり新政府(官軍)と戦いがつづきましたが、明治2年(1869年)5月には、榎本武揚が官軍に降伏して、全国はまったく平定されました。
明治維新と白石藩
白石藩は、仙台伊達藩の一門なのですが、戊辰戦争の時、伊達は隣どうしで長年のつきあいのあった会津の味方をして官軍(新政府)に抵抗したのです。
しかし会津城も落ちて、伊達の殿様はその年の9月15日(明治元年)、官軍に降伏しました。
それで白石藩は城も領地も取りあげられてしまいました。こうして白石藩士(藩に属する武士)とその家族は一夜にして職をうしなうことになったのです。
落ちつくところは、取りあげられた領地内の荒れ地で農民になるより仕方がありません。だがその土地は今はもう官軍と手を結んだ南部藩のものになっています。
おまけに東北地方は、まれにみる凶作(天気が悪くて作物が取れない)で百姓一揆さえおこり、藩内の人々はかつて無い不安と困難におちいったのでした。
このような藩内の混乱を何とかしなければならないと考え、家老の斉藤五左衛門と横山一郎の2人が上京して、実状を政府にうったえました。それは明治2年4月のことでした。 その時政府に「エゾ地開拓」の計画があるのを知って、ふたりは急いで帰えって報告しました。この話を聞いて白石藩の中はふたつの意見に分かれてたいへんな議論になりました。
「北海道に渡って開拓のさきがけとなるならば朝敵(天皇に反抗したことの汚名もそそげる、武士として北方警護(国の北の方を守る)の役にもたち、なんとか農業でも生活ができるだろう。」という賛成派。
「先祖伝来の土地をすてて、人も住めないようなエゾ地へなんか行けるものではない。どうせ死ぬなら、茲で死んだ方がましだ。」という帰農派。
藩士のだれもが、“去るも地獄・のこるも地獄”という悲壮なきもちでした。
領主の片倉小十郎邦憲は、菩提寺(先祖代々のみたまをまつってある寺)である傑山寺に藩士一同を集めて会議を開き、みずから「エゾ地へ移住」する決意を明らかにしました。
明治2年7月のことでした。
殿様のこの決意を聞いて、「家臣一同、涙を流して感動し、行く者、残る者の言い争いがおさまって互いに励ましあった。」と伝えられています。
幌別へ移住
やがて明治2年9月、片倉の殿様は政府に召し出されて、北海道開拓御用と幌別支配を命じられ、明治3年6月から4年の3月にかけて600人あまりが幌別に移住しました。これは白石藩士の約半数でした。残りの600人の藩士はどうなったのでしょうか。
移住のさしず
やがて明治2年9月、片倉の殿様は政府に召し出されて、北海道開拓御用と幌別支配を命じられ、明治3年6月から4年の3月にかけて600人あまりが幌別に移住しました。これは白石藩士の約半数でした。残りの600人の藩士はどうなったのでしょうか。
宮城県白石を出る
帆前船「咸臨丸」(長さ145メートル)が寒風沢にはいるから第1班(398名)は9月7日までに出発しなさいというのです。
9月16日になって「庚午丸」(長さ73メートル)が寒風沢にはいるから、残りの第2班(206名)は19日までに出発するようにと、知らせがありました。
さあ、いよいよ出発です。人々は長年住みなれた土地に名残をおしみつつ、故郷を後にしました。
明治4年9月12日第1班は、松島湾寒風沢を出帆しましたが、南部沖(岩手県)であらしにあい、太平洋の沖合にまで流され、6日もかかって9月17日にやっと箱舘に着きました。着いたというより、流れ着いたというありさまでした。人々は苦しみぬき、弱り果てていました。老人や子供をまじえた苦しい船旅は、どんなにひどかったことでしょう。9月20日の夜になってあらしもおさまったので、咸臨丸は石狩に向けて出帆しました。ところが、その夜上磯郡泉沢沖にさしかかると急に大雨が降りだして一寸先も見えなくなり、船は針路をあやまり暗しょうに乗り上げてこわれてしまいました。荷物はほとんど海水にぬれ、あるいは海中に沈み、着のみ着のままでやっと上陸しました。そして陸を歩いて再び函館にもどりました。
こうして第1班の人たちは、目的地を目指す途中で2回も遭難したのです。さぞかし行く先々がおもいやられて心細い思いをしたことでしょう。
いっぽう第2班の庚午丸は、9月21日に寒風沢を出帆して、26日に函館に着き、遭難した第1班の人等と一緒になりました。
この難破さわぎなどで、病人が出たり産気づいたりした人々を会わせると17名になったので、箱館から白石に帰郷させました。けっきょく、合計585名が庚午丸に乗りこんで、石狩に向けて出港しようとしましたが、天候が思わしくなく、10月4日まで箱館の港内に泊まりました。
本州から渡ってきた船
咸臨丸
石狩へ
天候が静まるのを待って、庚午丸は10月5日朝、寒風ついて箱館港を出帆。こんどは、無事に小樽に上陸しました。(明治4年10月7日新暦の10月20日)
ところが小樽には600人近い人々をとめておく場所がなかったので、開拓使のさしずで石狩の町へ行くことになりました。ここは漁場で番屋や納屋があったからです。
途中の朝里、銭函の間は、山が海にせまって、けわしい所です。この難所を荷物を背負いみんなしっかり手をとりあい、声をかけあって、命がけで通りぬけたということです。
銭函から海岸ぞいに石狩へ向けて、一歩一歩、砂浜を歩みつづけていきました。
遠い道のりを、寒い北風に吹かれながら…その苦労はなみたいていのことではなかったでしょう。
みなさんが海水浴に行ったことのある銭函や大浜のあのどこまでもつづいている砂浜を老人も子供も赤ん坊も歩いて行ったのです。
石狩での生活
石狩に着くと札幌の開拓使から開こん係の人が出迎えて手厚くせわをしてくれました。ひとりに綿入れ一枚づつを特別にくれ、また、開拓使の移民規則によって、家具、農具、炊事具、種ものと、ふとんもひとりに2枚くれました。
みんなは生き返ったような気持ちになりました。
しかし、その生活は、実にひどいものでした。住む家といっても、それは破れた空屋か漁師の納屋です。ムシロでかこっただけなので、北からの寒い潮風が吹きぬけるのです。
おまけにせまい上に一つのかまどで20人分、30人分の炊事をするものですから、ひどい混雑です。それに着のみ着のままのゴロ寝というありさまです。
寒いので暖をとろうとしても、木を切る道具もありません。素手で生木の小枝を折って来てイロリで燃やすすものですから、家の中は煙がもうもうです。この煙にむせんで目もあけられないありさまの毎日で、ほとんどの人が、眼病になってしまいました。
明治4年10月28日、佐藤孝郷は三木勉らと石狩から札幌に出かけて、開拓判官岩村通俊に初めて会いました。判官は「これから雪がたくさん積もるのだから、開こんの時期ではない。内地から新しくやって来た士族の者などには、とてもできるものではない。だから来年3月、雪がとけるまで石狩にとどまっていてもよろしい。」
判官のいうがままに石狩でこのまま、数ヶ月をすごすならば、いままで持ち続けてきた開拓心が苦しい生活の中でしだいに失われていくのではないかと考えました。
石狩のなかまの所に帰って相談した結果「われわれは、1日も早く自分たちの割り当ての土地をもらって、開こんの仕事にとりかかろうではないか。」という意見にまとまり、再び開拓使へ行って開こんを願い出ました。
岩村判官は、その意気込みに感心して、喜んで土地の割り当てをしてくれることになりました。
開拓の土地を選ぶ
孝郷らは、どのあたりの土地を選んだらよいかと札幌の付近をあちこち見て歩きました。孝郷は水の便利を第一に考えました。豊平川をこえて、月寒のあたりへやってきました。
ここから西北に向かって、樹木のよくしげった、なだらかな丘の大きなうねりがつづきその間を川が静かに流れていました。
開拓のくわをここにうちこむことにしました。
明治4年1月のことでした。
石狩の番屋や納屋で苦しい生活をしている家族やなかまを一日も早く迎えなければならないので夜を日についで寒空と風雪の中で林を切り開いて小屋掛けの仕事に掛かりました。
白石藩士の働きぶりは人々の目をおどろかせ、岩村判官もすっかり関心してしまいました。
「諸君の働きは、すこぶる雄壮で、他の移住民の模範である。この地を諸君の郷里の名を取って白石村と名付けるように。」 と申しました。
こうして明治5年2月の半ばには80戸の小屋ができ、あと20戸を加えて100戸の村ができる見通しになりました。
手稲に入る三木勉
このように白石村ができてから開拓使の開こんの係りから次のような許しが有りました。
願之通 白石村ハ百戸ニ充 残悉皆発寒村エ繰入ベキ事
これは「願いの通に許可する。白石村は100戸だけだから、残りの者はぜんぶ発寒村にはいること。」というのです。
石狩についた約600名の白石藩士のうち、三木勉ら241名(54戸)が明治5年の1月から3月にかけて「発寒」にはいったのです。(現在の宮の沢地区)
「発寒」はのち「手稲町」と呼ぶようになりました。
こんなわけで、私たちの町・手稲と白石は宮城県の同郷の人たちによって開拓が始められたのです。
ですから両町は「きょうだいの町」になるわけです。発寒は明治5年までは、のちの手稲村と琴似村をも含む廣い地域をさしていましたがその後、西の方を「手稲村」それがさらに「上手稲村」(発寒から追分けまで)と「下手稲村」(銭函寄り)とに分かれました。
白石藩士が入植したのは「上手稲」で、これが手稲村開拓の始まりとなりました。