えぞ地と明治維新
えぞ地と和人
北海道に和人(本州に住んでいた人たち)が、この地に移り住むようになる前は、北海道の自然は、人間の手の入らない自然のままでした。(このようすを原始のようだといいます。)
ちょうど北海道大学の植物園の森のようなところが、ほとんどでした。
大きい木々がはえ、清らかな川が流れる山野をアイヌの人々は、シカやクマなどの動物をおいかけ、あるいは季節季節の木の実や木の芽、草の実、草の球根などをとり、海や川では、鮭やます、やまべ、いわななどの魚をとり生活していました。
自然は豊かでした。アイヌの人々は、火の神、水の神、山の神をはじめ、木の一本にも草のひとくさにも神さまがいらして、毎日のめぐみをあたえてくれるものと、かんしゃしてくらしていました。
そこへ、今から、6~7百年ほど前にひょうりゅう(舟などがただよい流れること)した和人や、津軽地方の戦いにやぶれたさむらいなどが北海道の南の渡島半島にのがれてやってきました。
はじめは、アイヌの人々と一緒になってくらしていましたが、和人の数が増えはじめると、争いのなかった〝えぞ地〟にも、アイヌとのしょうとつが多くなりました。
1700年ころには、和人の人口は20086人と松前藩の記録にのこされています。そして和人はアイヌの人々から海産物、くまの毛皮や鷹の羽根などを、主に酒・衣服などと交かんしていました。交したこれらの産物を松前に来ている近江商人(いまの滋賀県の商人)かってもらってくらしを立てていました。
このように、えぞ地は海産物を中心とした交易によって和人が住みつくようになって明治をむかえることになるのでした。
えぞ地にロシアが
1776年(安永5年)ロシア人が、根室や厚岸にあらわれました。ロシアは千島やカラフトばかりでなく、えぞ地(いまの北海道)も自分の国にしょうと考えていたのでした。この事は日本の国をおさめていた日本の幕府や北海道をおさめていた松前藩もほとんどといってよいほど分かっていませんでした。
しかしロシアがせめてきてあぶないと人々に知らされ、えぞ地については、どんな島でどんなひとが何人ほど住んでいるところなのか、ほんかくてきななちょうさにのりだしました。
1977年幕府はえぞ地の様子を知ると心配になってきたので、松前藩に代わってちょくせつおさめることになり、1800年(寛政12年)えぞ地のせいかくな地図をつくるように伊能忠敬に命じました。
このように幕府もしんけんになって北の島々について、はっきりとした事情や知識をつかむようにつとめましたが、残念ながらその多くは、海岸をめぐって様子を調べたものばかりでした。
このような幕府とちがって松浦武四郎(えぞ地を北海道と名付けた人)は五年間で三回もえぞ地をくまなくあるいてまわり山や川のようす、平野のひろさなどが、絵図によって、はっきりと分かるようになりました。
1858年にはアメリカのペリーがひきいるぐんかんが函館港をみにきましたし、ロシアの大型の船が、しばしばあらわれるなど日本の国内もさわがしくなってきました。
そんなことがあって幕府は、松前にしろをきずき、弁天台にたいほうまでそなえつけました。
また、今の函館にも五稜郭(1864年完成)をつくりました。
そのころ300年も日本をおさめていた江戸幕府が力をなくしはじめ、かわって、京都におられた天皇を中心としたせいりょくが、力を付けてきました。
そんななか、アメリカやイギリス、フランス、ロシアなどがやってきて鎖国(よその国とつきあいをしないきまり)をやめて港を開く開港をようきゅうしてきたため、幕府はとうとう開港することをやくそくしてしまいました。そんな幕府のようすにいらいらしていた人々が、天皇を中心として徳川将軍の江戸幕府をたおす戦いを起こしました。
新しい世の中に、うつ手のなかった幕府はとうとうたおれてしまいました。
300年もつづいた侍の政治がおわり、かわって天皇を中心とした政治が生まれました。
このことを、明治維新といいます。
明治政府と北海道
新しく天皇を中心として政府がつくられました。それを明治政府といいます。
それまで徳川将軍が住んでいた江戸を東京とよびなをかえて日本の首都(政治の中心がある都市)としました。大名や藩をなくして、新しい県にして知事を決めました。
また、これまで士・農・工・商という職業で人間に差をつけたものをやめました。四民平等といいます。
しかし明治政府に反対する人も多くいて、とうとう明治政府とあらそいを始めました。これを戊辰戦争といいます。1年あまりのたたかいでしたが、幕府側はかんぜんにやぶれて、明治政府にこうふくしました。このたたかいは、のちの北海道の開拓に深いかんけいを持つことになるのです。 明治2年のことです。
明治政府は、松浦武四郎の意見をとりあげて、「えぞ地」を「北海道」とあらためてよぶことにしました。
それで開拓の仕事をめいれいする役所をつくりました。これが北海道開拓使です。その初代の長官には、島儀勇がにんめいされました。
北海道には、北の方からロシアが、千島・樺太に手をのばし、北海道に近づいていたため、明治政府はことさらに開拓と北海道の守りの仕事を急いだのでした。
北海道神宮は、このロシアから北海道を守るために北のロシアの方に向かってたてられました。
開拓使のはたらきと屯田兵
明治4年(1871年)に明治政府は北海道の開拓のしかたについて、その考えをきめました。
- 北海道を開拓するには、その中心になる開拓使庁(開拓の役所)をさっぽろに置こう。
- 開拓のしかたをよく知っている外国人に来てもらって、考えてもらうことにしましょう。
- わかいすぐれた人を外国に学ばせて外国から学んできてもらおう。
- 新しい産業(ものをつくり出す仕事)をはじめるため外国のきかいを買おう。
といったものでした。中でも開拓にかかるお金については、明治政府が全部もつことにしようと考えたのでした。
開拓使の考えは、まず、人がうつりすんでもらうことを、さいしょの仕事にしました。
開拓使は、本州のひとたちに、こうよびかけました。
「北海道においでください。北海道にわたるためのお金はみんな役所が持ちましょう。住む家をたてるお金もさしあげます。
くらしも三年間の主食(米・しお・みそ)はめんどうみましょう。畑にたがやした土地は、全てたがやした人にあげましょう。」というようなよいじょうけんでした。
けれども、こうして集められた人の中では、しぜんのきびしさの中で、木をたおし、くまざさをおこし、あれ地を畑にするということは、たいへんな仕事でした。なかには体をいためてしまったり、苦しさに負けてにげかえる人もありました。自分から進んでしぜんを切り開いていく強い心と強い体とをもった人だけが、苦しさにたえ、歯をくいしばってどりょくしたのです。
明治6年、開拓次官の黒田清隆(のちの三代目の開拓使長官)は、この様子を見て、屯田兵制度の考えを明治政府にさし出しました。
そのころ、本州には(特に東北地方)戊辰戦争に敗れたさむらいや、大名がなくなって仕事をなくした人々がたくさんいましたので、それらの人々を屯田兵という仕事にやとい、北海道を開拓するしごとと合わせて、北海道をまもらせようとしたのです。
明治8年(1875年)最初の屯田兵が琴似におかれることになりました。屯田兵の家208戸が、今の西区役所のところに立てられました。
明治8年5月、琴似村には198戸、965人もの屯田兵がやってきました。屯田兵のくらしはとてもきびしい規則正しい生活でありました。朝、4時のラッパの合図で起き、6時には「あつまれ」のラッパで集合し、みんないっしょになって開こんの仕事にあたりました。
また、畑づくりの最中でも、戦にそなえて、てっぽうの練習にはげみました。ラッパの合図で朝6時から夕方の6時まではたらいたのでした。
畑仕事をしたことのないさむらいでしたから、それはそれはたいへんな苦労でした。それでも、昔、さむらいであったというほこりをもって仕事にうちこんだのでした。