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本州から渡ってきた船 |
帆前船「咸臨丸」(長さ145メートル)が寒風沢にはいるから第1班(398名)は9月7日までに出発しなさいというのです。
9月16日になって「庚午丸」(長さ73メートル)が寒風沢にはいるから、残りの第2班(206名)は19日までに出発するようにと、知らせがありました。
さあ、いよいよ出発です。人々は長年住みなれた土地に名残をおしみつつ、故郷を後にしました。
明治4年9月12日第1班は、松島湾寒風沢を出帆しましたが、南部沖(岩手県)であらしにあい、太平洋の沖合にまで流され、6日もかかって9月17日にやっと箱舘に着きました。着いたというより、流れ着いたというありさまでした。人々は苦しみぬき、弱り果てていました。老人や子供をまじえた苦しい船旅は、どんなにひどかったことでしょう。9月20日の夜になってあらしもおさまったので、咸臨丸は石狩に向けて出帆しました。ところが、その夜上磯郡泉沢沖にさしかかると急に大雨が降りだして一寸先も見えなくなり、船は針路をあやまり暗しょうに乗り上げてこわれてしまいました。荷物はほとんど海水にぬれ、あるいは海中に沈み、着のみ着のままでやっと上陸しました。そして陸を歩いて再び函館にもどりました。
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咸臨丸 |
こうして第1班の人たちは、目的地を目指す途中で2回も遭難したのです。さぞかし行く先々がおもいやられて心細い思いをしたことでしょう。
いっぽう第2班の庚午丸は、9月21日に寒風沢を出帆して、26日に函館に着き、遭難した第1班の人等と一緒になりました。
この難破さわぎなどで、病人が出たり産気づいたりした人々を会わせると17名になったので、箱館から白石に帰郷させました。けっきょく、合計585名が庚午丸に乗りこんで、石狩に向けて出港しようとしましたが、天候が思わしくなく、10月4日まで箱館の港内に泊まりました。

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