白石藩は、仙台伊達藩の一門なのですが、戊辰戦争の時、伊達は隣どうしで長年のつきあいのあった会津の味方をして官軍(新政府)に抵抗したのです。
しかし会津城も落ちて、伊達の殿様はその年の9月15日(明治元年)、官軍に降伏しました。
それで白石藩は城も領地も取りあげられてしまいました。こうして白石藩士(藩に属する武士)とその家族は一夜にして職をうしなうことになったのです。
落ちつくところは、取りあげられた領地内の荒れ地で農民になるより仕方がありません。だがその土地は今はもう官軍と手を結んだ南部藩のものになっています。
おまけに東北地方は、まれにみる凶作(天気が悪くて作物が取れない)で百姓一揆さえおこり、藩内の人々はかつて無い不安と困難におちいったのでした。
このような藩内の混乱を何とかしなければならないと考え、家老の斉藤五左衛門と横山一郎の2人が上京して、実状を政府にうったえました。それは明治2年4月のことでした。 その時政府に「エゾ地開拓」の計画があるのを知って、ふたりは急いで帰えって報告しました。この話を聞いて白石藩の中はふたつの意見に分かれてたいへんな議論になりました。
「北海道に渡って開拓のさきがけとなるならば朝敵(天皇に反抗したことの汚名もそそげる、武士として北方警護(国の北の方を守る)の役にもたち、なんとか農業でも生活ができるだろう。」という賛成派。
「先祖伝来の土地をすてて、人も住めないようなエゾ地へなんか行けるものではない。どうせ死ぬなら、茲で死んだ方がましだ。」という帰農派。
藩士のだれもが、“去るも地獄・のこるも地獄”という悲壮なきもちでした。
領主の片倉小十郎邦憲は、菩提寺(先祖代々のみたまをまつってある寺)である傑山寺に藩士一同を集めて会議を開き、みずから「エゾ地へ移住」する決意を明らかにしました。
明治2年7月のことでした。
殿様のこの決意を聞いて、「家臣一同、涙を流して感動し、行く者、残る者の言い争いがおさまって互いに励ましあった。」と伝えられています。

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