秋のとりいれがすむと、村中の男の人は、山に入って、共同で造材のしごとをしました。西野や福井の人々が、造材のしごとをしていたのは、明治の終わりころから、昭和の35〜6年くらいまででした。明治の終わりごろは、ばんけいのほうまで、大正・昭和のころは福井のおくの山や、平和のおくの山で造材をしていました。そのころの造材は、冬山造材がほとんどでした。それは、人と馬の力で木を切りだすには、雪の上をそりを使って運ぶのがいちばんよかったからです。
造材のしごとでは、たくさんの人がはたらいていました。そのしごとは、山子・やぶ出し・たま引き・下引きなどにわかれていました。
「山子」は、テッサというおのとのこで木を切りたおすのですが、雪の深い旧しゃめんで木を切りたおすのは、大変なしごとでした。
切りたおすときは、おので切りたおすほうのみきに受け口という切りこみをいれておき、そのはんたいがわのすこし上をのこで切るのです。このおのと、のこによる方法は、思う方向に切りたおせるのですが、ときには思わぬ方向にたおれて、山子が大けがをしたり、死んだりすることがありました。また、受け口をふかくほらないと、木がたおれるとき、木がとんできたりしてたいへんきけんでした。切りたおした木は、山子が刃広というおので四角くけずって、はこびやすくしました。(後に丸太のままだすようになった)
「やぶ出し」というのは、山子が切った木を、やぶ出し人夫が土場(木をあつめるところまではこぶことです。)そのときは、とび・がんたという道具がつかわれました。この道具をつかって人の力で土場まで木をひきずりおろすのです。深い雪の中を、人の力で木をひっぱりおろすのは大変つらいしごとでした。
「たま引き」は、やぶ出し人夫が土場にあつめた木を大きな道のあるところまで、山の一本道をたまぞりと馬をつかって、はこび出すことです。たまぞりの上に丸太を一本のせ、それを何台もつらねて馬にひかせ、大きな道のある土場まで引いていきます。
最後は「下引き」です。この時の道具はバチバチと馬です。バチバチに、丸太をたくさんのせ、町の木工場まではこびます。造材が始まったころは、バチバチがなく馬の背中に木をつんだり、馬そりにのせたりしてはこんでいました。しかし、馬そりは、幅が狭くてたくさんの木を運ぶことができず、不便でしたし、倒れやすかったのでたいへんきけんでもありました。
このような仕事を共同でやっていたのですが、人々は毎日家から山まで、通っていたわけではありません。山の中に小屋をたて、冬の間じゅう山で生活していたのです。その小屋は、おがみ小屋というそまつなものでした。小屋をたてるために、みんなでむぎわらや、えんばくわらをせおって山に入り、そのわらで屋根をふきました。入り口はむしろをたらしただけでした。
中は広くまんなかに大きなストーブがあり、そのまわりには、松葉やわらをしきつめ、その上にふとんをしき、ねとまりしていました。その中での生活は、たいへんでした。食べ物の米やみそは、米そ上げといって、一冬分みんなで小屋にはこびました。それをごはんたきのおばさんが、大きななべでたいてくれました。また造材は朝早くから、夜おそくまではたらくので、毎朝大きなべんとうを作ってもらって、でかけました。
山での生活は、大きな木があいてですから、きけんがいっぱいありました。木がたおれるときや、木をはこぶときに、木やそりの下じきんなって、命を落とす人もありました。しかし、苦しいことばかりではありませんでした。毎年2月26日は、山祭りといってしごとをやすみ、ごちそうを作り、山の神さまに安全にしごとができるようにかんしゃしました。山祭りは、ほんとうは2月8日なのですが、福井地区では大正6年2月26日に宮下仁吉
さんが山で木の下じきになってなくなられたので、この日を山祭りとして神さまをまつることになったのです。
また、下引きの人たちは丸太を町の工場に運んだかえりに、手稲東町の佐藤商店(今の浜坂皮膚科のあたり)や二股の大内商店で、お酒をのむのがなによりのたのしみでした。そのお酒はコップいっぱいずつ売ってくれたので、「もっきり」といいました。お酒をのみすぎて、つないでおいた馬のほうが、さきにかえってしまうこともありました。
このように、明治の終わりごろからつづいた冬山造材も昭和35〜36年ごろまでに、木がすっかり切りつくされ、西野、福井での造材はおわりをつげました。

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