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カッペル |
明治時代 北海道に初めて汽車が開つうした年に、上手稲教育所にも初めてカッペル(まきストーブ)が使われました。まだいっぱんの家ではつかわれないめずらしいものでした。しかしこのカッペルがもとで明治30年(1897年)11月30日
学校が火事で全焼したことがありました。
明治の先生たちは、明治維新まで武士だったのっで、悪いことをするとたいへんきびしく、一升瓶に水をつめ、イスにのせ、そのイスを目の高さまで長い時間もちあげさせられたそうです。
明治21年(1888年)の春ごろは手稲国道(現在の上手稲バス停前)のなかほどにありましたが、生徒も30人くらいで、教室も全学年で1つしかなく、その他に職員室、湯沸かし場、遊技場がいっしょにになったのがあっただけでした。
簡易小学校時代は4年でその上の温習科というのが2年ありましたが、その温習科に進む者は2〜3人であとは、家事のてつだいをしていました。
この6学年が一つの教室、一つの黒板で一人の先生におそわるのですから、全体にめがとどきませんでした。でも生徒同士が助けあって、上級生が下級生を教えたり、下級生でも上級生の学習もいっしょにおぼえたり、忘れてしまったところを、下級生におしえながらおもいだしたり、便利なこともありました。体育や唱歌は全員で行い、遠足は銭函海岸や、近く野山にいきました。
学校は国道の方にあり、今の中立にあたるところは、柏林で夏は木の枝やササがおいしげって今にもクマが出そうなところでお互いに声をかけあいながら通学しました。明治19年(1886年)にはクマ18頭、オオカミ38頭がつかまり一人で歩くのはたいへんきけんでした。
冬は雪で道がふさがり、とくにふぶきの日は大きな子が先になって進みますが、スキーなどなかったそのころは、重いカンジキもはけず、わらぐつをはいて、ふきだまりのなかをはって進みました。
そのため明治28年(1895年)には西野神社の上の方に分教場がつくられ、遠くのこども達をおしえました。
当時の小学校は1年に1度3月に進級しけんがありました。その時には全部のふけいがたちあって、しけんがおこなわれました。成績の良いものは、飛び級をし、悪いものは進級できませんでした。教科書は漢字が多く、くろうしたそうです。
生徒のふくそうは、着物にモンペすがたで、洋服を着た人は先生か役場の吏員くらいでしたから、道で洋服を着た人にあったら、知らない人でも礼をしたそうです。カバンをもった子は2〜3人で、本をふろしきにつつんでせなかにかつぎ、ゲタばきで通学しました。雨がふるとげたをりょうてにもって走ってかえりました。
冬のはき物は、ツマゴといって、ワラであんだはきもので、ぬれたツマゴを勉強中にストーブのまわりでかわかしたそうです。ゴムぐつは大正10年ごろからはくようになりました。

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