明治5年(1872年)8月に、全国に学校を作ることになり札幌では創成小学校(資生間)、白石小学校(善俗堂)、そして手稲小学校(時習館)の3つの学校がスタートしました。、少しおくれて師の路小学校(篠路教育所)ができました。
時習館は手稲に和人が住みはじめたのは慶応2年(1866年)に中田義右衛門という人で、明治4年(1871年)には越後の人たち5戸が手稲西野の入り口のかいたくのため移住してきました。そのころの手稲は、まだ未開の地で、かいたくに入った人たちは木を切り背たけほどある草をかり、汗を流して田畑をつくりました。まだ学校もなかったので、子どもたちも毎日おとなたちの手伝いをして学校へはいけませんでした。
明治5年(1872年)1月に仙台藩白石支藩片倉家の家臣54戸241人が手稲村にいじゅうしてきました。そのひとたちの取締りとなった三木勉は、「開拓の第一歩は移住してきた人たちの子弟教育にある」と考え明治5年5月に学校を作り、自ら進んで教育にあたりました。
「学ンデ時ニコレヲ習フ」の古語をいんようして「時習館」とめいめいし、たてものは開こんちのようすそのままに、柏の木の皮をはいでやねをふき、桜の皮に「時習館」とかいてあったそうです。(今の中の川公園手稲東3南7の石碑の近くにたっていました。)
おしえたのは、読書、習字、筆算だけで、読み書きが中心でした。また、国の歴史では道徳の大切さをねっしんにおしえました。
算数の計算は今までソロバンでやっていましたが、三木勉は、当時もっとも進んだ筆算による計算方法をおしえていました。
他に三木勉は剣道の達人で、近くの山野で剣道をおしえ体力づくりも行なわれたのではないかと思います。
このように時習館の教育が心身、技能の向上に力をつくし、進んだ教え方をしたのでたちまちひょうばんになり、上手稲村に移住してきた片倉家の子どもたちだけでなく、ふきんの村の子どもたちも教育を受けにきたそうです。
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時習館 |
そのころたまたま開拓使判官松本十郎が移住者のようすを見まわりにきた時、この時習館の文字を見て、子どもたちをはげまして帰りました。
このとき、1まいの絵を役所の人にえがかせ、自分でこれにはげましの詞を書きこんで時習館におくりました。
このことがあって三木勉は大いに感げきして、ますます、子どもたちや村人の教育に力をつくしました。
移住してきてからリーダー役だった三木勉は教育にいっしょうけんめいになるにつれて自分のしごとがおろそかになると思い、その役を伊藤信正というひとにゆずり、教育にますます力をいれたそうです。しかし残念ながら、その後、開拓使の戸せき係りにうつり、さらに札幌神社(現在の北海道神宮)の禰宜(神官)、千歳村や月寒村の村長をつとめ、さい後、きょう里の白石(宮城県)に帰ってなくなったと伝えられています。
古老の話:普通読本のこと
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