西野の木村さんたくに古い水車がある、とのことでたずねたのは昭和55年のことでした。草屋根をかけ大切に保管されたその水車は、昭和35年ごろに水車大工の理寛寺利助さんと木村さんと2人で考えながら作ったという、ばしゃのじくを使ってめずらしいしいほねぐみで、がんじょうなつくりでした。(現在手稲東小学校の郷土資料室に保管されています)。
つづいて木村さんに西野の水車について話を聞きました。
「この地区は西野米で有名な米どころでした。水田は約200町歩で、約160軒で作っていたが、それらの農家が秋のしゅうかくのための、げんどうりょくとして、のきなみに水車を使っていた。ところが昭和38年ごろの、でんかで、いっせいに、すがたを消してしまった。だがその中で平和の石井さん、同じく近藤さん宅に、使われたままのすがたで、まだ残っている、とのことでした。
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水車小屋 |
ではこれら西野の水車についての資料を調べてみようと思い、早速『手稲町史』を開いてみましたが、このことについては170頁に
当時はもみすりに水車をどうりょくとした土うすを用いていた。西野1帯には100台もの水車があったという。とあるだけでした。
そのことを木村さんに話しましたところ、「明治30年ごろからみんながくろうして造田し、ひんしゅかいりょうにも、くしんをし、水車を使いながら西野米のぞうさんに努力してきたのに、このまま消えてしまうのは残念なことだ、せめて水車のぶんぷじょうたいだけでも調べてみよう」、ということになり、以後木村清さん(昭和57年亡)をはじめ地域のたくさんの方々のきょうりょくで、当時水車を使われた方々の、めいぼができました。
その数は各用水組合員数と、ほぼいっちし、水車のなかったのはわずかすうけんだけでした。
「のきなみにあった」、とのことばどおりり、さいせいき(大正末〜昭和初)には155台もの水車が使われていた事がわかりました。
これをもとにして“西野地区の水車分布立体地図”と、さらに平和の石井さん宅の水車のもけいもつくり、手稲東小学校創立百10年祭の折に学校のきょうど資料室にてんじしていただきました。
西野地区で一流の水車大工とよばれた前鼻直一さん(手稲東在住明治27年生92さい)のたくを、石井さんのしょうかいで、たずねたのは最近のことですが、はなしの主なことをしょうかいしましょう。
「広島開こんに明治19年に入植し、大工もできる前鼻村七さん(直一さんの祖父)が、本州で見ていた水車を、明治40年ごろ長男の豊吉さんに教えながら、西野でつくったのがはじまりで、その後、豊吉さん、直一さん、理寛寺利助さん、渡辺岩松さん(昭和58年亡)などといっしょにに仕事をしているうちに、水車づくりのぎじゅつが広まった。
水車のじゅみょうは米をつくと、しんどうで早くいたむので10年ぐらいだろう。それをつくりかえたり、しゅうぜんしながら家の数より多くつくったことになる。それに水車に使うだっこく機や、土うす、米つきうすなどもつくらなければならないし、水車をつくる大工は少ないし、全戸にいきわたるまで、かなり年数がかかっている。そのようなことで水車の時代にはたいへんいそがしかった。
「素人でも大工気のある人は他の家のをみながらつくっていたが」、と昔をしのびながら話して下さった。
このちくの水車は発寒川のほうふな水と、へいきんして1000分の40のこうばいというめぐまれた条件のため、ぶんぷみつどが高いこと、各戸の水田こうさくめんせきが一町余りで、へいきんしたきぼであること、使用もくてきが、いねのだっこく、もみすり、じかせいまいなどであったこと、それに、水車のかせつには知事のにんかが必要であるのに、西野地区の場合は、水田用水のてつづききだけで、水車に使う水は秋に不要になった水田用水を利用するので、水車かせつの手続きは不要であったことなど、全国でもまれなとくしゅな状態であったことがわかります。
みっしゅうした平和のじゅうたくちたいのたにまで、石井さん、坂井さんたくではかいたく時代からの水田を、少ないながらも大切に名ごりおしむようにして作っておられるすがたに接し、常にけいいを表しています。
なお石井さんのじゅうたくのまわりには、90年余り以前、祖父が木をひいた材料を使い、自力で建てたというじゅうたく、そうこ、なや、馬こやなどがいまだにがんじょうなすがたで残っており、それらは、平和はもちろん西野の、生きたかいたくきねんぶつとしてすえながくまもりつづけていただきたいものと念じております。
平和町内
中原 為雄
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