郷土の歴史

古老の話 --- かいたくのころのくらし ---

 平和の草分けのひとり坂井三郎右衛門さんの孫にあたる坂井兼太郎けんたろうは、おじいさんやおばあさんのかいたくのころを「さっぽろ文庫・明治めいじの話・札幌市教育委員会編」の中で、つぎのように語っておられます。

(一)坂井兼太郎けんたろうさんの話(坂井兼太郎けんたろうさんは手稲村の村会議員や手稲町の農業委員もつとめられた方です。)

 おばあちゃんの話だとね、わたくしの父親は、明治めいじ17年、おばあちゃんにせおわれて、小樽から札幌にきたんだというんだ。

  子ども心にびっくりしたんだが、フトン2人分をせおい、その上に、2さいの子どもをのせて、両手にもてるだけ荷物をぶらさげ、9里(36キロメートル)の山坂を、ひどいくろうで歩いてきたんだと。

 小樽に着いたのは、福井県ふくいけんの17戸の家族たちで、おじいちゃんは、それより先に、1人で札幌に来たらしい。東本願寺別院をたよってきたというが、北海道はどんな所なのか、下見にきて、「これなら住める。」ということでみんなを連れてきたんだね。

 明治めいじ19年に右股(平和)に入植にゅうしょくしたのは13戸で、その中におじいちゃんもいたんだが、残りの家族は小樽に残ったり札幌に行ったりして右股にはこなかったらしい。おじいちゃんたちは、右股に来るまでは、ことにの畑で出面(1日だけやとわれ、その日にかせぎ代をもらうはたらきかた)なんかをしていたようで、出面賃は、4銭だったそうだ。そのとき、米は、1俵が1円25銭したんだよ。

 子どもの時分といっても、8さいまでだったんだが、右股のは田んぼばっかりだったねえ。おばあちゃんたちの話だと、明治めいじ24年ごろ沢水を利用して試作していたらしい。しかも、もっと前には、アワやヒエなんかを作ったり、炭焼きや、材木の切り出しをしてくらしていた。家にも、つい最近まで炭焼きのカマがあってねえ。

森 なにしろ、明治めいじ17年に石井助太郎いしいすけたろうさんや春中島太郎さん、春木屋孝造さんたちが入植にゅうしょくしたころは、クマやキツネがしゅつぼつ(見えかくれしてすがたをみせること。)したし、まるっきり原始林みたいなもんだったというからね。やっとこさ生活してきたようなもんだよ。

 田んぼといえばねえ、右股はきふく(でたり、へこんだりした土地のようす)の多い所だから、だんだんばたけのような水田が多かったもんだ。明治めいじ28年には、用水組合ができて、家のおじいちゃんが組合長になったんだが、右股には発寒はっさむ川よりに、用水路の本線と、山がわに支線があって、平和の滝近くの発寒はっさむ川から水を引いていたんだ。家は、支線から水を引いて山側に田んぼを造ったんだが、わたくしも子どものころは、よく手伝わされたもんだよ。

 しゃめん(ななめにかたむいた地面)をクワみたいなものでけずって、モッコに土を入れて運ぶんだが、こうした田んぼをつくるには、1反歩(やく991.7平方メートル)に30円かかったね。よく手伝いに来た人たちに、モッコをゆすられてからかわれ、かたにコブができるし、皮がむけて血がでたもんだ。便利なきかいなんかなかったしね。

 農作業は、しょっちゅう、手伝わされたもんだ。

 田植えは、5月ころにやったが、当時は”てまがえ”といってきょうはここ、あすはどこといって部落の人が30人くらい集団で、田植えをやったもんで、そうした作業は、15日間くらい続いた。わたくしも竹のカゴを前と後ろに二つつけた天びん(ものをかつぐぼう)で、なえを運ぶのを手伝わされた。学校は営農休暇(農家がいそがしいときに、学校が休みになる。)があったからね。田んぼの虫とりもやったよ。あみの長さが1寸(約3センチ)ちょっとの舟形網というやつで稲をさらっていくと、つつじょうになった葉に入った青虫がとれるんだ。

 せなかにどろをしょったドロイムシなんかもいたが、とった虫は石油を入れたかんに入れると死んでしまった。今みたいに、薬の防除作業なんてなかったからねえ。

 これは、もっと後になってからの話かもしれんが、右股などでとれた米はおいしくて、“西野米”なんていわれたもんだ。反(10アール)あたり4俵から4俵半しかとれなかったが、出荷(売りに出すこと)すると、米だわらについた米の札をはずされて、秋田や新潟(そのころ日本の中でもおいしい米をつくる地方)の米の札をとりかえたぐらい米の味はよかったんだね。子どものころ食べ物のしゅるいは少なかったが、米のごはんだけは不自由しなかったね。

 稲かりだって、一家総出でカマの形をしたノコギリみたいなもんでやったもんさ。とにかく今じゃ考えられないくらいの米どころでした。

 そのころ農家は、みんな馬を飼っていた。水田をおこすときに使うし、堆肥たいひ(ひりょうのひとつ)を作るんだよ。ウチにも5頭いて、家族と同じようにかわいがっていたけれど、わたくしの毎日の仕事は、この馬のせわでねえ。毎日、学校から帰ると、食べさせる草を刈ったり、稲のわらを押し切りのデッカイやつで切ってやった。ある時、馬小屋で下を向いている時に、とつぜん、馬に首根っこをかまれて持ちあげられてね。びっくりしちゃったよ。だけど馬はかわいいものさ。わたくしも、はだか馬にまたがり、よくそこらを走り回ったが、時には、子ども同志で競争みたいにならんで走ったもんだ。たのしかったねえ。

 はじめ、ためしにつくった米も、右股用水ができたことで、明治めいじ35年ころには、本格的にとれていたので、村の景気はものすごくよくなって、二股のあたりに歌舞伎(昔のしばい)や女相撲をまねいて、村の人たちがたのしんだという。客よせの、はでな(目だつ色で、赤や黄や青がそのままつかわれているもよう)のぼりなんかが立っていて、笛やたいこが左股(福井)や右股(西野)方面まで、“ドンチャン・ドンチャン”とやったというんだねえ。

宇佐の八幡様 ところで、右股は、そうとう早くから人が住んでいたらしい。今、わたくしがまつっている宇野八幡うのはちまんという神さまがあるんだが、そのほこら(神さまをまつった小さなやしろ)に「明治めいじ2年よりはじまる。」とあるんだね。かたりつたえだと、明治めいじ2年に、福玉仙吉ふくだませんきちという人が、右股に入ってたらしいんだ。

 その神さまの中にかかれている文字をかいたのは、最初ににゅうしょくした山口県人の1人、石井助太郎いしいすけたろうという人なんだそうだ。

 宇野八幡うのはちまんは、右股の草分けの神さまでね。私の子どものころには、すでに現在の五天山の登り口にあったが、その昔は別の場所にあったんだ。ちょうどウチと春中島さんと石井さんの三軒の中心にあったものを、道路や水田をつくるのにふべんだからうつしたんだねえ。

 今は石づくりのお堂になっているが、昔は、たてよこ1メートル、高さが3メートルぐらいの木でできていたものだった。

五天山神社 八幡はちまんさまの前にはどひょうがあってね。子どもずもうなんかがあったんだが私は体がそう大きくなかったから、すもうをとった記おくはないが、ただ、今のバス道路をつくる時にじゃまになったりっぱななナナカマドを、土地の人からきふしてもらって、どひょうのそばに植えたよ。

 右股のちいきをいう時には、五天山のことも話さないといけないだろうが、この五天山という名前は、昭和になってからついたものでね。私が子どものころには、そうした名前はなかたったし、何か聞くところでは、頂上はそくりょう(土地をはかる)する時の基点(はじまりのところ)の三角点で、三角山といっていたような気もする。

 とにかく、右股は、田んぼばっかりだったが、私が学校に通ったころも、田んぼの中を走って行くような感じでね。まあ、学校のまわりなんかには、カシの木がいっぱいあった。まあ、学校といっても、始めは小学校ではなく、西野教習所といって西野神社の横にあったんだ。私は八歳でそこに通ったんだが、その前、右股には寺小屋学校みたいなものがあって、前原まえはら兼太郎けんたろうさんという先生が教えていたと聞いているね。

 さいしょ、3戸だけだった右股だが、その後、どんどんにゅうしょくして、私が生まれたころには、40戸近くにもなっていたというから、子どもも多くなって、学校がひつようになったんでしょう。前原まえはらさんといえば、この人は学徳の高いじんかくしゃで、村の人たちもみんなそんけいしていたんだね。私の名前と同じなのも、おばあちゃんが先生の人格にあやかりたいとつけたもんなんだよ。

 学校の建物は木造の平屋で、教室が2つだった。

 先生がひとりで子ども20人くらいを教えた。奧の平和の滝の方から通ってきていた子どもたちもいたねえ。勉強は、読み方や算術や修身しゅうしんなんかだったが、黒板はなくて、ちょっと黒味をおびた石盤で、「ハナ」「ハト」などと石筆で書いてボロ切れでふいていたね。筆で習字を習ったおぼえはあるけど、鉛筆なんかなかった気がするなあ。それから運動会や遠足なんかぜんぜんなかったが、毎年、秋になると芝はこびをやらされたもんさ。晴れた日に、子どもたち全員で芝のかれたのや、ヨモギをとってくるんだ。冬の学校の暖房のたきつけに使うのさ。ゆかいなのはある時、教室にフクロウがまよいこんでね。われた窓ガラスから入ったらしく、教室の中をとびまわってるんだ。

 教だんの下でつかまえて、にがしてやったもんだね。

 発寒はっさむ川や用水路では、よくあそんだもんだ。学校の帰り、右股橋の下で、買ってもらったばかりの学生帽で、魚をすくって父にひどくしかられた。発寒はっさむ川は“あばれ川”でねえ。ちょっと大雨が降ると、しょっちゅうはんらんしたもんだ。いまでも、バス通りのあたりをほると15〜16尺(約5メートル)ほどのねんどだ。その下はまるくなった石がぎっしりとある。きっと昔は、川はばが広かったんだろうね。だけど、大水になった後は、楽しみもあって、おじさんに用水路につれていかれて、サケをとったこともあるよ。水門をしめたもんだから、水のなくなった用水路でバチャバチャしていたわけだね。

 左股は田んぼばっかりだったから、用水路があみの目のようになっていた。右股用水路の本線は、組合でほったんだが、支線は個人個人でほったんだよ。支線は、はばが1メートルもない細いもんだった。水田を新しくつくる時に、それを切りかえする。すると、水のなくなった用水路には、カジカやヤマベ・ザリガニがいっぱいのこって、かんたんにとれたもんだ。

 魚といえば、大正に入ってからもこんなことがあった。馬のしっぽの毛を2本ほどちぎって、細い木にまるめてしばると6本になるね。この毛にやなぎの木の虫をしばりつけて川にたらすと一度に6ぴきくらいのカジカがつれた。家ではカジカの身の入った味そ汁をしょっちゅう食べたよ。

 あそびといえばそんなもんで、ほかにも木をけずって作ったクイをさして、それをたおすあそび(にっくりあそび)や秋になると、五天山でブドウやコクワをとってあそんだ。

 そのころは、登山道なんかはなかった。冬は、あまりあそぶことがすくなかったが、父親がそりを作ってくれてね。それは木をけずったもんで、もつところはブドウのつるでできていた。いなわらで作った「つまご」や「深靴(ふかぐつ)」をはいてたが、当時はふか雪だったから、そんなはきものも役にたたないことがあったね。いしょにあそんだ学校の仲間も16人いたが、今は私ともうひとりになってしまった。

《聞き手は、渡部昌樹さん(株式会社北方編集者)です。
昭和五十三年九月発行のさっぽろ文庫「明治めいじの話」から》

(二)佐々木 繁さんの話

 佐々木繁さんは、明治めいじ38年の生まれで、手稲村立上手稲小学校(今の手稲東小学校)に学び、大正9年、高等科を卒業して家の仕事(農業)にはげみました。農業組合の仕事や市会議員もなされ、札幌市政功労者のおひとりでもあります。この話は、さっぽろ文庫26・明治めいじの話(札幌市教育委員会編)からとったものです。

 わたくしのじいさん(佐々木熊吉さん)が福井県ふくいけんの樫津村から北海道にきたのは、明治めいじ28年5月のことです。まず、小樽に上陸したんです。そこで馬車追いなどをしていたのですが、思うようにいかず、その年の9月、ばあさん(熊吉さんのおくさん)の弟をたよって、現在の福井に入植にゅうしょくしたのです。

 じいさんが入った福井ですが、場所は今の小別沢に行くTの字の所で、そこに10町歩(約10ヘクタール)ほどの土地をもっておったんです。このころは、農業が十分でなかったようです。そのため、人を2〜3人おいて、炭を焼かせていたそうです。

 年中ひまなんかなかったね。びんぼう人は、ひまがないんだね。夏は水田・畑、冬は炭を焼いていたという生活でした。ウチらは、山に桑畑が2町(約200アール)ほどあって、養蚕ようさんをしていました。養蚕ようさんをやっている人は、朝つゆの間に桑をこく(桑の葉をとる)わけ。そして、まゆになったものを北4条の興農園(いまは、札幌駅前の東急デパートの南側にある)とかに売りに行ったのです。それが、現金収入(すぐにお金が手にできること)でした。入植にゅうしょくした(明治めいじ20年代)の冬は、炭焼き、まきを作って札幌に出していたようです。

 がたがた馬車が、やっと歩けるような道路を、炭なら10俵(150キロ)つけて、やっと歩いたといいます。

 今の国道あたり(市営バス手稲東停留所)で馬車につみかえ、札幌の町へ出て行くわけです。

 炭は黒炭で、かま(炭を焼くしくみ)はおもに福井(左股)の方に10か所くらいありました。かまを持っている人は部落で5〜6けんで、1けんの家で2つぐらいもっていました。炭は1回入れると1かまから20俵から30俵できます。

 しかし、1か月に2回もつくるとなると人手がたりなくなります。かまをもっていない人は、みな「かまのやき子」などの仕事をしていました。そうやって、夏のこづかいだけをかせぐようにしていました。

 食べ物は、畑からどうにかこうにかとれるから、20円から30円ほどあれば、一年くらすことができたので、12月ごろから山に入って、春の4月いっぱいやきました。

 年間180〜200俵くらい作りました。そのころ、1俵もっていっても、70銭か80銭でした。だから、ひと冬に30円も残す人はえらい方でした。

 その30円の金が夏中のこづかいなのです。

 それで生活がくるしくて厚別の方とか十勝の方にひっこして行った人がいました。だから、西野でかいたく時代からの人は、15〜16人くらいしかいないのでしょうか。

 水田や畑は、みんな3町(300アール)を目標にして作ったもんです。

 水田が1町5反(150アール)、畑が1町5反ぐらいのわりあいで作りました。

 そのころ、豊作ほうさくだといっても、水田は、反3俵か4俵くらいしかとれなかったんです。今の平和の人などは、水田一本やりで畑はもっていなかったのです。

 ここら(平和や福井)は盆地ぼんち(まわりが山々にかこまれている土地)だから、お米がよくとれた。水田は明治めいじ23年、平和の坂井さんが始めて水田を造り、反2俵ほどのしゅうかくがありましたから、米がつくれるといって、水田づくりがさかんになったのです。

  福井や平和や西野の米は、いい米だと評判になっていきました。

 また、畑作では、木をきって炭をやいたそのあとの畑に、コテイポ・ササギ・エンドウ(3つとも豆の名まえ)、あま・じょちゅうぎくを植えました。

 あまは、新琴似ことにの亜麻会社の2軒(帝国製麻会社と日本製麻会社)が、きょうそうしてかったもんです。

 このあたりは、大きな動物というとクマでしたね。シカはいなかったがキツネはいましたね。キツネにだまされて、学校の先生が2人死んだことがあった。道に迷って、キツネにだまされたわけではないでしょうが、行きだおれになってしまったんだね。

 あの時分は、冬は大変だったね。冬になったら、ふぶいちゃって道なんかないんだもの。それでいて山の方に行けば、良い道ついているんだよ。毎日、山ご(山で働く人)が歩いているからね。里の方に行ったら、道なんかないんだもん。どうかすると川につかることがあるんだ。

 昔、じいさんは、わたくしが手がつめたいというと「雪でこすれ。」というんだよ。雪をつかんでこすると、手がほとってきてぬくくなるから、手甲(今の手ぶくろ)はいたりすなと、そんなことをいったもんだよ。今から考えると、合理的(理くつにあったこと)な話なんだろうなあ。手ぶくろはいていたら、ロクな仕事はできんものなあ。ところが、炭やきする人は、手ぶくろをはかないから、籠手というものをはいていました。籠手でやらんと、手があれるわけでね。炭をかぶっているから「あかぎれ」ができるんだ。昔、その「あかぎれ」に焼き火ばしをあててジュウジュウやったもんだ。手を見たら、それはひどいもんでした。

 福井のおくに、地ごく橋というのがあって、95度の急カーブでした。急な坂になっていて、登ろうにも、馬がいやがって登れん。そうすると後ろまで下がってしまって、ついに沢の中まで馬が落ちてしまいました。それで、馬が死んだかと人がケガしたとかで、昔から人は地ごく橋といったもんです。今は、沢を全部うめてしまったから分かりません。

 今、カーブになっている川のふちを、土管や砕石さいせき(石をくだいたもの)でうめてしまったんです。高台の方を、ごくらく台といってたんです。

 地ごく橋から向こう(ばんけいの方)は私有地(ひとりひとりのものの土地)で、こちら西野の方は、学田地(役所の土地)だったのです。当時(明治めいじ琴似ことにの役場で、500円出せば全部みんなのものにあげようというのだが、その五百円を部落中であつめられなかったんだ。

 それが学田地となり、琴似ことにの役場に年貢をおさめておったんだ。

 北海道にわたって、いつまでたっても、佐々木の熊吉は学田地(ひとの土地)におるかといわれるのがけたくそわるい(はらがたってくやしいこと)から、西野の土地をかいました。北海道にきたら、自分の土地をもちたいのが人情だからね。

 わたくしは、明治めいじ44年に、手稲村立上手稲小学校(手稲東小学校の前身)に入学しました。

明治後半西野神社とこどもたち
明治めいじ後半西野神社とこどもたち

 それまで、平和の神社のところに分教場がありました。そこで、ウチのおやじ、学校統合(2〜3つの小さな学校をひとつにまとめること)なら、役場に土地を寄付するといったんです。

 役場は、「統合する」というので、三反、寄付しました。

 それから、その学校で勉強しました。子どものしつけは学校まかせで「学校のいうことを聞いてこい」「学校だけは休むなよ」ときつくいわれたもんです。ウチのおやじは、勉強は名前だけ書ければよいのだといっていたね。へたに、生半可(しっかりわからないのに)に人になんだかんだかとかいてやってさ。ひどいめにあうことがあるからやめれといって、勉強すれといわなかったね。あとは「兄弟けんかするな。仲良くせよ。」というくらいなもんだね。昔の人は、そんなにやかましいことはいわなかったんです。山に行って木の実をとったり、川に入ったりして、よく遊んだものだ。

 カジカ・ドジョウ・カニとかヤマベとかをとってね。男の子は陣とり、女の子はあやつきだったね。私が帯をしていたら、さいてしまうので、おふくろはやりきれないものだから、真田帯(ひらたくあんだもめんのおび)を買ってくれたもんです。

《聞き手:阿部敏夫さん(北海道みんぞく文化研究会会長)》

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