 |
炭焼き小屋 |
盤渓は、むかし盤の沢とよばれ、屯田兵のためのじゅんび地として国からかりていた土地でした。明治27年(1894年)日清戦争がはじまったので、ここの木で炭をやいて、屯田兵が、戦争へいくためのじゅんびのお金をつくることになったのです。この時炭をやいたのが、盤渓地区開拓のはじまりでした。この炭やきは、屯田兵の長峰忠四郎が中心となり、我萬嘉吉などの人夫をあつめ、はじめたものです。この屯田兵のための炭やきは明治32年(1899年)までつづきましたが、その後、炭やきのけんりは、焼子にゆずられ、一定のぜいきんをおさめれば、ここで炭やきができるようになりました。また、これと同時に木材の切り出し(造材)もはじまりました。造材は明治30年(1897年)国の森林の一部がはらいさげになり、この木を切りだすことからはじまりました。これは、3年間おこなわれ、冬に木を切り、春に木を発寒川に流して運んだそうです。この時の木材は、北海道師範学校(北海道教育大学)などを建てるためにつかわれました。
 |
 |
開拓の様子 |
造材作業 |
明治32年(1899年)には、池田隆によって、左股から盤渓の造材地まで2.5キロメートルの道がつくられ、造材をするにはたいへんべんりになりました。
 |
流送 |
盤渓の木材は、えぞ松・とど松・桂・せん・しななどで毎年4000石(1122立方メートル)くらいとれ札幌や小樽の商人によって外国へゆ出されました。特に桂は質がよいので有名で、鉄道のまくらぎなどになりました。その後、木材のほうふな盤渓の山も、炭やき、造材、まきの切り出し、山火事などですっかりはげ山になってしまいした。そのため大正7年(1918年)から植林がはじまりました。一方、木を切り出したあとは、畑にし、あわ・いなきび・小麦などをつくりました。人々は農業だけでは生活できず、炭やき・造材・まきの切り出しなどの苦しい生活をしていました。

|