1776年(安永5年)ロシア人が、根室や厚岸にあらわれました。ロシアは千島やカラフトばかりでなく、えぞ地(いまの北海道)も自分の国にしょうと考えていたのでした。この事は日本の国をおさめていた日本の幕府や北海道をおさめていた松前藩もほとんどといってよいほど分かっていませんでした。
しかしロシアがせめてきてあぶないと人々に知らされ、えぞ地については、どんな島でどんなひとが何人ほど住んでいるところなのか、ほんかくてきななちょうさにのりだしました。
1977年幕府はえぞ地の様子を知ると心配になってきたので、松前藩に代わってちょくせつおさめることになり、1800年(寛政12年)えぞ地のせいかくな地図をつくるように伊能忠敬に命じました。
このように幕府もしんけんになって北の島々について、はっきりとした事情や知識をつかむようにつとめましたが、残念ながらその多くは、海岸をめぐって様子を調べたものばかりでした。
このような幕府とちがって松浦武四郎(えぞ地を北海道と名付けた人)は五年間で三回もえぞ地をくまなくあるいてまわり山や川のようす、平野のひろさなどが、絵図によって、はっきりと分かるようになりました。
1858年にはアメリカのペリーがひきいるぐんかんが函館港をみにきましたし、ロシアの大型の船が、しばしばあらわれるなど日本の国内もさわがしくなってきました。
そんなことがあって幕府は、松前にしろをきずき、弁天台にたいほうまでそなえつけました。
また、今の函館にも五稜郭(1864年完成)をつくりました。
そのころ300年も日本をおさめていた江戸幕府が力をなくしはじめ、かわって、京都におられた天皇を中心としたせいりょくが、力を付けてきました。
そんななか、アメリカやイギリス、フランス、ロシアなどがやってきて鎖国(よその国とつきあいをしないきまり)をやめて港を開く開港をようきゅうしてきたため、幕府はとうとう開港することをやくそくしてしまいました。そんな幕府のようすにいらいらしていた人々が、天皇を中心として徳川将軍の江戸幕府をたおす戦いを起こしました。
新しい世の中に、うつ手のなかった幕府はとうとうたおれてしまいました。
300年もつづいた侍の政治がおわり、かわって天皇を中心とした政治が生まれました。
このことを、明治維新といいます。

|