安産 縁結び 厄除け 厄祓い 勝運上昇 「西野神社」

文字サイズ

古老の話2

全国でもまれな水車群落ぐんらく

 西野の木村さんたくに古い水車がある、とのことでたずねたのは昭和55年のことでした。草屋根をかけ大切に保管されたその水車は、昭和35年ごろに水車大工の理寛寺利助さんと木村さんと2人で考えながら作ったという、ばしゃのじくを使ってめずらしいしいほねぐみで、がんじょうなつくりでした。(現在手稲東小学校の郷土資料室に保管されています)。

  つづいて木村さんに西野の水車について話を聞きました。

  「この地区は西野米で有名な米どころでした。水田は約200町歩で、約160軒で作っていたが、それらの農家が秋のしゅうかくのための、げんどうりょくとして、のきなみに水車を使っていた。ところが昭和38年ごろの、でんかで、いっせいに、すがたを消してしまった。だがその中で平和の石井さん、同じく近藤さん宅に、使われたままのすがたで、まだ残っている、とのことでした。

水車小屋
水車小屋

  ではこれら西野の水車についての資料を調べてみようと思い、早速『手稲町史』を開いてみましたが、このことについては170頁に
当時はもみすりに水車をどうりょくとした土うすを用いていた。西野1帯には100台もの水車があったという。とあるだけでした。

  そのことを木村さんに話しましたところ、「明治めいじ30年ごろからみんながくろうして造田し、ひんしゅかいりょうにも、くしんをし、水車を使いながら西野米のぞうさんに努力してきたのに、このまま消えてしまうのは残念なことだ、せめて水車のぶんぷじょうたいだけでも調べてみよう」、ということになり、以後木村清さん(昭和57年亡)をはじめ地域のたくさんの方々のきょうりょくで、当時水車を使われた方々の、めいぼができました。

  その数は各用水組合員数と、ほぼいっちし、水車のなかったのはわずかすうけんだけでした。

  「のきなみにあった」、とのことばどおりり、さいせいき(大正末~昭和初)には155台もの水車が使われていた事がわかりました。

  これをもとにして“西野地区の水車分布立体地図”と、さらに平和の石井さん宅の水車のもけいもつくり、手稲東小学校創立百10年祭の折に学校のきょうど資料室にてんじしていただきました。

  西野地区で一流の水車大工とよばれた前鼻直一さん(手稲東在住明治めいじ27年生92さい)のたくを、石井さんのしょうかいで、たずねたのは最近のことですが、はなしの主なことをしょうかいしましょう。

  「広島開こんに明治めいじ19年に入植にゅうしょくし、大工もできる前鼻村七さん(直一さんの祖父)が、本州ほんしゅうで見ていた水車を、明治めいじ40年ごろ長男の豊吉さんに教えながら、西野でつくったのがはじまりで、その後、豊吉さん、直一さん、理寛寺利助さん、渡辺岩松さん(昭和58年亡)などといっしょにに仕事をしているうちに、水車づくりのぎじゅつが広まった。

  水車のじゅみょうは米をつくと、しんどうで早くいたむので10年ぐらいだろう。それをつくりかえたり、しゅうぜんしながら家の数より多くつくったことになる。それに水車に使うだっこく機や、土うす、米つきうすなどもつくらなければならないし、水車をつくる大工は少ないし、全戸にいきわたるまで、かなり年数がかかっている。そのようなことで水車の時代にはたいへんいそがしかった。

  「素人でも大工気のある人は他の家のをみながらつくっていたが」、と昔をしのびながら話して下さった。

  このちくの水車は発寒はっさむ川のほうふな水と、へいきんして1000分の40のこうばいというめぐまれた条件じょうけんのため、ぶんぷみつどが高いこと、各戸の水田こうさくめんせきが一町余りで、へいきんしたきぼであること、使用もくてきが、いねのだっこく、もみすり、じかせいまいなどであったこと、それに、水車のかせつには知事のにんかが必要であるのに、西野地区の場合は、水田用水のてつづききだけで、水車に使う水は秋に不要になった水田用水を利用するので、水車かせつの手続きは不要であったことなど、全国でもまれなとくしゅな状態であったことがわかります。

  みっしゅうした平和のじゅうたくちたいのたにまで、石井さん、坂井さんたくではかいたく時代からの水田を、少ないながらも大切に名ごりおしむようにして作っておられるすがたに接し、常にけいいを表しています。

  なお石井さんのじゅうたくのまわりには、90年余り以前、祖父が木をひいた材料を使い、自力で建てたというじゅうたく、そうこ、なや、馬こやなどがいまだにがんじょうなすがたで残っており、それらは、平和はもちろん西野の、生きたかいたくきねんぶつとしてすえながくまもりつづけていただきたいものと念じております。

平和町内
中原 為雄

かいたく時代の神社とお寺

 かいたくしゃの人たちは敬神崇祖の念あつく、いじゅうみんは、あんじゅうのための心のささえとして、神をうやまい、せんぞをまつる行事を考えて来たのでした。

  平和地区においては、自分たちの、じゅうきょをつくると同時にすうねんごには神社をつくり、出身地のことなる人たちがしんぼくを深めるために元旦参りや秋のしゅうかく感謝祭をにぎやかに年中行事としていたのです。

  また、せんぞをまつるお寺については、法華宗ほっけしゅうの日登寺、浄土真宗の浄恩寺(共に琴似ことに村に)明治めいじの初めからあり、善男善女のお参りする所でした。また部落では部落くみあいをそしきし、不幸やさいがいのあったばあいは、いっちきょりょくして助け合いをして来たのです。

  宗派は大別して法華宗ほっけしゅうが10数戸、浄土真宗が20数戸がじゅうきょして居り、共に講中をそしきし、毎月2回とうばんせいで、信徒の集まりをもよおしし、住職の読経法話等をきき、食事を共にしながら楽しい一日をすごし、報恩感謝ほうおんかんしゃのくらしをしておりました。

  法華宗ほっけしゅうの人達は、明治めいじ時代からせっきょうじょを建て、20つぼ位の平家で昭和27年頃まで、講中の集会所として利用しておりましたが、ろうきゅうかのため、取りこわし、講中もかいさんしました。

  浄土真宗の講中は現在も昔どおりの戸数がありますが、かいたく時代のようなあつまりはありません。説教所のあった場所は平和2条4丁目でした。

  右股地域(現平和)のかいたくしゃたちがどのようにして、じゅうみんの、こうりゅうとしんぼくを、はかって来たかの、一たんをしるし、先人の労を知ることも、いぎがあるものと思いますので、きおくのままをつづりました。

平和町内
石井 輿三郎

古老に聞いた発寒はっさむ

 発寒はっさむ橋ふきんは、川はばが広く、道路こうじようなどの、じゃりさいしゅの場所となっていた。この川は雨がふらない時は、きれいな冷水でありこの水がヤマベにてきしていたのか、川いっぱいにならんで泳いでいた。

  学校帰りには、ぼうしや手ぬぐいで魚取りにむちゅうになり、日のくれるのをわすれ、よく親にしかられた。

  秋には、さけがいて、こどもの力ではつかめず、家からホークを持ち出して、これでつきさしてつかまえ、みんなで分けた事もあった。

  この川に急に魚がいなくなったのは、昭和55年ごろからでであり、それは平和れいえんから約7キロおくに、中島こうざんができ、宮城の沢にせいれんしょを作り、金のさいくつを始めたころからである。山の中に12とうの飯場小屋があり、かなりの人が働いていたが間もなくへいざんとなった。

  現在の1条6丁目の川辺にあった農家の庭に植えていた、すももを食べに来たくまを、かりうどがとった事もあった。かいたくがすすみ川べりをはじめ山の木がしだいに切られたころから、大雨のたびに川水があふれ、錦水橋、中州橋、右股橋が一度にりゅうしつし、川添線あたり、とくに右股橋上流で福井へつうじる道路ふきんは、じばんが低くかったので田畑が流され大木がながれこんだ事もあった。

  現在の錦水橋の下流に平和橋と言う木製橋があるが、この付近で昭和41年3月27日放送されたテレビドラマ、八千草薫、江原慎二郎主演による東芝日曜劇場「橇の鈴」のさつえいをした事もある。

  昔はこの川の水で水田を作り、水車を回して平和の人たちにうるおいを与え、今は山の手橋上流でこの水をくみ上げ中の川に送り、ここに作られた、じょうかそうで、きれいになった水が平和、西野ちいきに送られ、われわれの飲料水として使用されている。

  かいたくから、今なおわれわれに、おんけいのふかい発寒はっさむ川を大切にしたいものである。

馬頭ばとう観世音かんぜおん菩薩ぼさつ

 町内の南がわにある五天山には、火の神、水の神など神社に類するものが10程あるが、その中でぞくに言う馬頭ばとうさんについて、めずらしい話を聞く事ができました。北海道の農村に行くと、いたる所にこのしゅの神社があるが、これはいっぱんに農耕馬のれいをまつったもので、農業けいえいにかく事のできなかった馬に感謝してまつられたものである。

  その中で馬頭ばとう観世音かんぜおん菩薩ぼさつと言うのは、死んだ馬の神様であり、生きている馬の仏様としてまつっているのが馬頭ばとう世観音である。


  • 五天山馬頭ばとう観世音かんぜおん菩薩ぼさつ

  ほとんどの馬頭ばとうさんは、社を建てその中に神様のみたまをまつっているが、写真集にある様に、ここの馬頭ばとうさんは、馬に道具を付けて働くすがたをそのままに、生きている馬の神様としてまつっている。これをたてた人は昭和の初め、平和に住んでいた竹本さんが馬が病気で足を悪くしてこまり、この足を直すために建てたもので、今は近くの坂井弘義さんが大切に守っている。

  初めは山のちょうじょうに建てたが、お参りが大変なことから、現在は山のちゅうふくに移動している。

  昔からこの馬にこどもを乗せるとじょうぶに育つと言われている。また、ここに深さ三メートル位のいどがあるが、高台にありながら水が、かれた事はなく、この水を馬に飲ませると病気をしなかったと伝えられている。

八幡はちまん様と義父

 坂井家の先祖は、福井県ふくいけんでそこから三郎右衛門夫妻(兼太郎けんたろうの父)が3さいの時ふとんや荷物の上にのせられて今の現在地にかいたくに入ったのが明治めいじ18年秋のころでした。宇野八幡うのはちまん宮は明治めいじ21年に氏がみさまとして部落でまつられるようになり、すでに先入入植にゅうしょく石井助太郎いしいすけたろう氏お筆によると、右股くさわけの神さまとしてまつられた宇野八幡うのはちまん宮は、明治めいじ2年より始まると書かれていたようです。家も大正11年に全焼したために写真、しょるいなどがないので、たしかな事はわからないようです。

 義父(兼太郎けんたろう)は明治めいじ37年9月15日現在地で生まれ現在82さいの話では、義父の生まれるいぜんからお宮はあり、部落の人達でお祭りをしてわかものたちのすもうや、よきょうがありとてもにぎやかだったそうです。また今の2条5丁目の小林商店のふきんにはお店がならんでいて、お祭りなどは笛やたいこで歩いていたそうです。

 お宮は昭和20年に部落の人たちに手伝っていただき新しく建てかええられました。

 また昭和34年8月11日に百年記念に合わせて石造りで建てかえました。百年祭は部落の人たちみんなに案内状を出し、前夜祭にはえいがや色電気をつけてお祭りはもりあがりました。それからのちに義父もたいちょうをこわしたため、昭和59年6月吉日にお宮を西野神社に合祀させていただくようになりました。

 義父の生い立ちを少し書きたいと思います。義父の生まれる前から寺子屋と言う教習所が有り、その後、上手稲村公立小学校を設立した寺子屋の先生が、かわり、その時の先生が前原まえはら兼太郎けんたろう先生で、前原まえはら先生は西野のはってんに力を入れられた、りっぱなお人で義父の親は先生にあやかって兼太郎けんたろうと名付けたそうです。義父が大正9年に、公立上手稲小学校、高等科を卒業してもっと学業を身に付けようと上級に進みたかったようですが、家が農家と長男のため、親に反対されてあきらめたと言っていとことも聞いたこともあり、ほんとうに努力家だったようです。

 夏は水田、冬は山に出かせぎぎをしながら家のせいけいを立てていました。部落の統計調査員、農事組合長、部落会長、民生委員、しょくりょう調査委員等、役職をもち、昭和22年4月に手稲村村会議員に当選その後、手稲町になり町会議員を42年の3月に札幌市に合併になるまでつとめました。その間20年間は、道路拡幅、バス路線延長、右股橋を永久橋に、平和福井の護岸ごがん工事と、毎日のように出かけるので、義母は、今でもよく昔父さんは毎日カバンを持って、出かけてばかりで家の仕事はぜんぜんしてもらえなかったと言っていました。そのかわり部落の人たちが良くてつだって下さったそうです。

 そうしてきゅうげきに、田畑がたくちに変わり学校、公園、下水道が出来てすっかりきれいな町になりました。こうして部落民のためにじんりょくし、おかげで昭和40年2月全国町村会より自治功労者としてひょうしょうを受けました。わたくしも義父のひとがら、生き方にとうとき方とそんけいしておりせいいっぱい長生きしてこれからの社会情勢を少しでも多く見ていただきたいと思っております。

坂井 靖子

私の育った平和

 わたくしは明治めいじ42年平和に生まれここで育った一人ですが、大正6年ごろからの話をつづって昔の平和を少しでも知ってもらいたいと思います。

  当時この平和ちくを右股とよんでおり、38戸の人がすんでおりました。

  この人たちはほとんどが福井県ふくいけんしゅっしんのかたであり、山林をきりひらいて農業をいとなんでおりました。

  この平和はきこうが良く、また土地がこえていた事から、水田が多く作られておりました。

  用水は、平和のたきからさらに一キロ位おくに取水口を作り、山のちゅうふくに水路をほって、このちいきに水を引き、約80町歩の水田がこさくされていました。

  この工事をうけおったのは、青山五左衛門さんと言う方で、そのほしょうにんに坂井三郎右衛門さんがおり、このうけおい金額は当時で100万円であったと言うことであり、今もこの用水は使用されています。

  このちいきの夏は、おんだんで風がない事からサクランボが良くそだち、どこの農家にも何十本も植えてあり、道行く人は馬車の上からとることができ、札幌などから来た人はみちばたではらいっぱい食べて行ったものです。

  それでも、だれもおこる人はなくのどかなふぜいでもありました。

  このころ馬は農家にとって大切なかちくであり、「馬くい」と言うかちくあきないがいてその人から手に入れた馬に金輪の馬車を引かせて、のうさんぶつや木材のうんぱんをしており、又ゆいいつの交通きかんでもありました。

  この大切な馬も良い馬がいると、800千円位で軍馬としてちょうえきされ、朝5時までに札幌駅につれて行きなみだの別れをした事もありました。

  その頃の右股通りは、はばが2間(3.6m)であり、両側には水田用の水路があり、そこにはいつもきれいな水が流れておりました。

  平和の入口にある右股橋は何回も大雨で橋が流され、そのたびに営林署へおねがいをして橋材のはらいさげを受け、馬と人の力で山から運び、部落の人で橋のかけかえを行いました。こどものころは、この橋をわたって手稲東小学校へ歩いて通いましたが、はきものと言えば冬はツマゴ、夏はゲタでした。

  学校は9時始まりであったが、あまり早く行ってもしかられるし、おくれると1時間目は教室へ入れてもらえないきびしさもありました。

  生徒は全部で200名位だったと思いますが、運動会の時は350つぼ位(1155平方メートル)のグランドのせいびには青年団とか、どうそうせいが行い、当日は家族みんなで参加した楽しい思い出があります。

  交通の便が悪かったので病人が出ると大変でした。

  近くに病院がなく、琴似ことにのまわり病院がありそこのお医者さんが馬でおうしんして下さいました。ふべんでくろうの多い生活の中で青年時代に1番の楽しみは、西野神社のお祭りでした。

  当時のお祭りには、ちいき内のしゅよう道路に、50間(約90m)に一個づつ神灯を立てて、お祭りムードをもりあげたのです。

  この神灯は村の青年達が、ノミやカンナを持ち寄り3日間位かけて作ったのです。

  先ず木で四角い箱のような形のほねぐみみを作り、これに紙をはりそれに思い思いの詞や絵を書き色をぬってし上げるのです。

  電気のない時代でしたので、石油を使ったカンテラをこの中に入れると文字や絵が浮うきでてきれいなものでした。こうして自分達で作ったもののできばえを見て歩くのが、1年中で1番楽しい思い出として今も残っております。

  物のほうふなげんざいでは、手作りの物は少なくなったが、人と人とのれんたいかんをたもちながらこの平和がますますはってんする事を、ねんがんするものであります。

近藤 清蔵

平和40年の思い出をたどる

 安井家は、先代の奧次郎と言う人が、明治めいじ19年に同族13名といっしょに福井県ふくいけんから船で40日余りもかけて、小樽港にじょうりくして、手稲村に入しょくしたのが始まりと聞いております。もちろん、とうじはげんせいりんを切りたおしては、木炭を焼き、そこに一鍬一鍬と入れて造田造畑をおこないまして作物をつくり、せいけいを立てていたそうでございます。

 その後年代はちょっとふめいなのですが、西野神社の横の1条3丁目、げんざいちに移住して来たのでございます。当初はその所で酒、タバコをふくめた、日用ざっかよう品店いわゆる万屋をけいえいしていたと聞かされております。(明治めいじ30年過ぎのころです)。

 またそのころはいまの西野神社の境内に教育所と言うものがございまして近くの人たちはそこへ行ってまなんだと聞いております。それから何年か後になってからは、みな上手稲の小学校の方に通うことになったそうでございます。


開拓かいたくのようす

 いづれにいたしましても当時この地区に入植にゅうしょくされた方々は長い間きびしい自然の条件じょうけんとたたかいながら原始林の開こんにいどみまして、半つぼまた一つぼと原野を美田美畑に変えて行かれたのでしょう。

 わたくしが安井家にとついで参りましたのは、時代もずっとずっと下がりまして、昭和21年のことでございますが、それでもやっと電灯が入ったばかりでございました。そして当時は今の1条5丁目の市バス停留所のふきんには大きな大きな水車小屋がございまして、ガッタン、ゴットンと脱穀だっこくから籾摺もみすり、米搗こめつき、製粉までいっさいを水車でやっておりました。なんでもその時分には平和地区に40~50ちかい水車があったと聞いたようなきおくがございます。

 また、そのころから(昭和24~25年)急に野菜づくりがさかんになりまして、毎日毎日はたけの中の石ころひろいとたたかいながら色々な野菜をとったおぼえがございます。そしてこの野菜づくりのピークは確か昭和37~38年ごろではなかったでしょうか。 それにつけましてもわすれる事の出来ないのは、昭和34年春の発寒はっさむ川の大こうずいでございます。たんぼもはたけも雑木ぞうきもかんじんの右股橋までが、すっかり流されてしまっただいさんじでございます。板の橋も昭和38年にはてっきんの永久橋となり、同時に市バスの平和への乗り入れも同年からでございました。それからはやもう20余年さっこんではすっかり都市化の波にのまれまして、じゅうたくが増えなつかしい田園風景やカエルの合唱は、すっかり聞かれなくなってしまいましたが、それはそれといたしましても、美しい手稲山のふところにいだかれ、自然味いっぱいにあふれましたこの里をいつまでも、いつまでも、緑りこく、静かで豊かな文字通り平和なまちであり続けたいとねがっております。

安井 ユキ

開拓の頃を語る(座談会)

出席者

  • 天田 勝治
  • 小畑 藤五郎
  • 広部 市太郎
  • 山崎 友彦
  • 佐々木総次郎
  • 渡辺 吉栄
  • 玉田 直治

司会 近藤 清市

移住した頃

司会
本日はごたぼうのところ、多数お集まり下しましありがとうございました。つきましては、この度町内会におきまして沿革誌えんかくしを編さんすることとなり、昔をしのんでの今日のざだんかいも、それにのせて永く留めたいと思います。
まずみなさま方の生まれたところ、移住された時のお年、どこからなど(当地でお生まれの方はお父さん、お祖父さん方からお聞きになって居られること)をおうかがいいたします。

宮下
私は7才の時、父に連れられて福井県ふくいけんから来ました。伏木ふしきの港から1週間の船旅を経て小樽に上陸、小樽からは汽車に乗って、それから福井に来ました。

天田
わたくしは札幌に生まれ、五才までは札幌で育ち、母に連れられて平和に来ました。その後母といっしょにに26才の時福井へ移って来ました。

小畑
私は西野24番地(今の西野第二)に生まれました。祖父は明治めいじの初期遠く但馬(今の兵庫県)の国より北海道に来て、そのご父の代をへて、大正5年福井に来ました。

広部
私は、はじめて福井に入植にゅうしょくした広部藤太郎の孫(第3代目)で、父が20才の時福井に移り、その後わたくしが生まれました。祖父の最初のころは、篠路に居ました。

山崎
私も初代しょだい入植にゅうしょくの山崎喜八郎の孫に当たり、ここで生まれ、ここに育ちました。祖父は明治めいじ20年にここに来たと聞いています。

佐々木
私は17才の時に父と共に左股(福井)へ来ました。ですから今は2代目です。

渡辺
私の家は、明治めいじ36年石川県から父の代に現在地に入植にゅうしょくしました。

玉田
私の祖父は、明治めいじ8年宮城県みやぎけんから、屯田兵として北海道(琴似ことに)へ移ってきました。私が25才の時琴似ことにから福井に移ってきました。

仕事のようす

司会
移住されてからの苦労はなみたいていではなかったことと想像いたしますが、移住してから先ず手始めの仕事について聞かせて下さい。

宮下
福井に入ってからの先ず先ずの仕事は、原始林をきりひらく開こんでしたが、ばっさいした原木で、差し当たって炭焼きを初めました。(当時の炭焼かまのあとは今もいたるところに見られます)続いて山に入り造材(年中ほとんどど)にねっちゅうしました。

宮下
またそのころ、野生の桑が多かったためと、まゆがよく売れる(札幌農村館)ので、副業としてかいこを飼いました。何分けいざいじょうのこともあり、養蚕ようさんも熱心で、家の中はかいこで一ぱい、人の居るところもないくらいでした。

佐々木
ようさんが下火になると、次は除虫菊じょちゅうぎく(昭和6~7年ごろ)栽培がさかんになりましたが、これも10年間位で終わりました。(除虫菊じょちゅうぎくは和寒より入ったのが始まりです)

山崎 佐々木
それから堆肥たいひ増産や作物増産のための肥料作りにと、酪農らくのうにも意を用いるようになり、各戸必ず2~3頭の牛を飼いました。もちろんさくにゅうははんばい、またこうし育成の道もありらくのうも一時はさかんでした。

佐々木
広部さんは十頭以上も飼っていました。

宮下
移住したころ、開こんしながら炭焼き、造材などほねを折りましたが、同時に水田(米つくり)の農業にはかくべつみんなでがんばりました。中でも水田つくりのための用水路にはほねが折れました。(明治めいじ30年)水田面積が増えたため、明治めいじ42年には第2用水路を設置しましたが、その資金ちょうたつにはかくべつ苦労しました。(反別割と水利権で)

渡辺
昭和に入ってから、畑作物の中、野菜つくりのことはわすれられません。野菜は当時、札幌市の消費じゅように応じられるだけの生産量があり、とりわけ朝市でのしゅうにゅうは大したものでした。私は早くに自動車のめんきょをとり、昭和29年にはみなさんに先がけて自動車をこうにゅうし、野菜のうんぱんにずいぶん使いました。とにかく当時手稲、琴似ことに方面で野菜は福井が一番でした。

入植当時の家づくり
入植にゅうしょく当時の家づくり

大きな災害

司会
開こんにはほねが折れ、その上農作業には天候がつきものですが、きょうさくや災害はありませんでしたか。

渡辺
大正2年の冷害と水害にはほとほとこまりました。何しろこの年、水田から米のしゅうかくが出来たのは、東さんと和田さん、それと私の家と三戸のみでした。他は種もみさえじゅうぶんにとれませんでしたから。

広部
昭和に入ってからも、昭和34年大水害があり、左股橋がりゅうしつ、折から選挙当日でもあり選挙が終わって投票箱を運ぶことが出来ず、一時小畑さんたくに預け夜に入って消防のはしごにより、川をわたり、ようやく運ぶことが出来たのです。

生活のようす

司会
かいたくのころはすべてにこんなん、中でも衣類、食物、住居などに不自由、不足勝ちの多い生活と聞きましたが、毎日の日用品ちょうたつはどうなさって居られましたか。

宮下
明治めいじ32年に広部藤太郎さんのところに店があり(店と言っても酒、タバコ、かし、のみ)そこで買い物をしました。そのほかちょっとした買い物になると、札幌の方へ出 かけました。後に手稲東には佐藤商店と久守商店、又二股には大内商店が開店したので、わりあい便利になったのですが。

佐々木
昔は日用品と言っても、みそ、しょう油などはほとんどどが自給だったから、買う必要はなかったのだす。(衣、食、住については本文にゆずります)

当時の医療

司会
病気などの時はどうでしたか。

広部 小畑
当時は医療きかんとて無く、すべて重い病人は戸板にのせて琴似ことにの亀田医院か、廻医院に運びましたが、人手による労力は大変なものでした。

宮下
またお産などの時は、多くは自分でしょちしましだが、助産の経験者もおり、お願いしていました。

小畑
一度不幸のあった時は、馬そりなどで西野墓地(東中学校のところ)まで運び、かそうにしましたが、かそうじょうが不完全だったので、まきや木炭を使い苦労しました。特に冬にはこんなんしたものでした。

宮下
このこんなんは、西野墓地にかそうじょうが出来るまで続きました。

玉田
医療機関はもちろん薬局とても、当時は無く、各家庭に備え付けの売薬(主として越中えっちゅう)も大いに利用されていました。

その他の思い出

司会
最後に「これは」と思われる思い出がありましたら。

宮下
住む人は少なかったが、広部さんの所に、ちゃんとポストがあり手紙を出すことが でき、琴似ことに局よりゆうびんはもちろん電報も配達してくれ、この方面はとても便利でした。

広部 佐々木
子どもの遊びとして竹馬、こままわしなどがあり、とても楽しかったものです。また、開拓かいたく地蔵尊じぞうそんのまつりには青年会などで余興に浪曲ろうきょく、映画などをよんでくれてうれしかったです。また進んでえいがを見に琴似ことにの方へ出かける者もありました。

山崎
ごらくと言えば、青年のカルタ会もわすれることが出来ません。

佐々木
青年と言えば当時ずいぶんほうし活動もやりましたが、今の会館の所にグランドを作り、陸上競技などをやり、大いに楽しんだものでした。また、当時クラブが悪くなっていたので、そのクラブを建てるために、共同作業を熱心にやり、毎月定額の積み立てをしたものです。

宮下
クラブはその後青年のおかげで、昭和9年琴似ことに屯田兵の官舎をはらいさげで建てました。

小畑
 とにかく、そのころの青年活動は実におうせいで、どこに行っても左青年会のめいせいはあがるばかり、まさに左股青年謳歌の時代でした。(活動のしょうさいについては本文にゆずります)

天田
今日は、あたかもかいたく記念の日であったが、どうか開拓かいたく地蔵尊じぞうそんをいついつまでも大切に、住民が心を一つにして、これからの町づくりにはげんでもらいたいと思います。

小畑
あわせて牛馬の霊をまつる牛馬観音の碑祭りも。

小畑
福井地区は琴似ことに学田によりはってんしたのであるから、学田のことをわすれることのないように。琴似ことに学田(琴似ことに屯田兵の土地)は、明治めいじ35年学田として小作農に移され、後、戦後 学田の解放されるまで大切な生産用地でした。

小畑
また福井地区に移住のみなさんは移住の初めから、とりわけしんこう心が厚く仏をまつり、これによりいっちだんけつして何事も平和えんまんに事を進めたものです。さきに建てたクラブ(昭和9年)もその講堂をかね、講堂には「おふみ」(御文章明治めいじ38年2月本山より下付)をおさめ、毎月7日の2回は、一同さんぱいの日とし各戸がもれなくさんぱい(現在は7日のみ)することとなっていたのです。(お講は今も続けられています)

宮下
講堂のない時は(明治めいじ27年より)住民一同が各戸をこうごにじゅんかいして阿弥陀如来あみだにょらいを祭り、講をあげて報恩感謝ほうおんかんしゃの意を表していました。

司会
長時間にわたりきちょうなたいけんだんや思い出話を聞かせていただき、ありがとうございました。これで今日のざだんかいをとじることにいたします。

私の遠い思い出(特別寄稿)

 この地に生まれ育ち、この福井にとつぎ50年になろうとしているきっすいの小畑でございます。

  私は、明治めいじ42年4月に生まれた67才。明治めいじ、大正、昭和と3代を経て来ました。明治めいじのことは分かりませんが、大正初めより父母の苦労が、子ども心にも焼きついています。食べるものもなく、家と言っても名ばかりの掘立小屋、冬ともなれば風がふき、ふとんの上が真っ白になる事がしばしばでした。そのころは、親子ざっきょ時代でしたし、父母が話し合っていたことはみな覚えています。

  お金のない苦しみ、びんぼうなるが故に言いたいことも言われず、人の世話になれば、こんなこともがまんしなければならないのかと、男泣きに泣いた父を見て、おさないわたくしではありましたが、「私はきっとやるぞ。人に負けない家庭を築き、子どもにこんな情けない思いはさせまい」と、そのころより固い固い決心をしました。

  学校は2年程通いましたが、3年生ごろからは、春の運動会まで行き、秋の取り入れがすむまでは家の手伝いをさせられました。父は運動が好きでしたので、私を運動会までやってくれました。私は走るのはいつも一番でした。

  父の苦労は母がびょうじゃくだったからです。それ故に一番上の私が働かされました。しかることが多く、あとから考えると、すまないと思いました。下の弟と力を合わせ、どんなに働いたことでしょう。21才のとき現在の小畑さんの所に参りました。

  明治めいじ4年4月4日です。人は4のつく日をきらいますが、小畑一家は4から始まっております。よくねん4月4日長男藤正が生まれました。けっこんと同時に二人で話し合ったことは、お金を残すこと、人が笑おうが、にくもうがお金を貯めることが念願でした。そのころはまたふきょうのどん底でした。

  お米一俵が5円位でした。1年に100円ためれば、10年経てば千両箱が出来ると言う時代でした。

  昼夜の区別なく働き、みなと同じやり方ではとうてい望みは達せられない。ぼんも正月もありません。正月は三日まで。

  小畑は造材山に、馬をもって山にとまりこみで働きに行きます。働き高はいつも一番でした。

  家を守る私は、馬の「カイバ」「ストーブ」のまき作り、屋根の雪下ろし、子どもの着物、寒い冬でもメンヨウの毛を糸にするのに夜11時ごろまでやりました。ラジオも電気もありません。何をするにもみな手でやらなければなりません。

  そのうち戦争せんそうが始まり、今にも小畑は招集されるのではないかと思いながらも、お国のためにめされている家の手伝い、またあらされている水田を人の倍も作り、取れたお米は一俵残らず国のために出しました。作りながらも、くず米や、いもなどを食べながら必ず勝つ事を信じ、がんばりました。そのうちだんだん不安になって来ました。「負けるのではないだろうか」などと言うものなら、小畑は頭からしかりとばしました。軍隊に行って来た夫にとっては負けるなどとは、つゆ程も思ってはおりません。最後には勝つと言う一点張りでした。とうとう負けました。今になってあのころを思う時、あれは夢ではなかったかと思われます。なんと言っても、うそのようです。本当に何もありませんでした。

  あのころの子どもは本当にかわいそうでした。いつのまにこんな豊かな世の中になったのでしょう。つらいこと、苦しいことはわすれませんが、良くなって20年、30年、あっと言う間に過ぎ去り、私もこのように年を取ってしまいました。時々昔を思い出し、父母の艱難辛苦かんなんしんくをおもいうかべ、戦争せんそうのあったころよりも遠い昔を思い出し、むねの熱くなる思いにふけることが間々あります。昔の人の言葉ではないけれど「ああもったいない、ありがたい」の心で一ぱいです。

  昔はだれよりもびんぼうで、苦しい時代を歩んで来ましたが、今の私はだれにも負けない、和やかな、幸福な日々を夫と共に過ごしております。

小畑 マサオ

築山つきやま牧場ぼくじょうのおじさんに聞く

 私たちは、福井にある築山つきやま牧場ぼくじょうのことを知るために、築山つきやま牧場ぼくじょう築山つきやまさんにお聞きし、いろいろなことを知りました。築山つきやまさんは大正12年にここに移ってきて、牧場ぼくじょうをはじめました。他にも牧場ぼくじょうをやっている農家が4~5けんあったそうです。

  移ってきたころは、馬は6頭、牛は7頭でした。今は、馬は3頭、牛は30頭もいるそうです。牛からとれるちちは、1日に、大きなかんに3かんあるそうです。1かんに82.5リットルはいるので、3かんで247.5リットルになります。とれちちはサツラク牛乳という会社の工場に車で持っていきます。昭和27年までは、今のように車で運ぶのではなく、馬車や馬そりで運んでいたそうです。

 そのころ、工場は今の札幌市民会館の場所にあったそうです。朝しぼったちちを馬車で運ぶのに2時間半もかかったので、昼の半分は、ぎゅうにゅうを運ぶのにかかってしまったそうです。冬や春さきは、手稲に雪があっても、札幌の町にはあまりなかったので、円山まで馬そり、円山から馬車で工場まで運んだこともあったそうです。

  今は、りっぱなふもと橋がかかり、道路もほそうされ、車もふえて便利になっています。30年前までは、こんなに不便だったことが夢のようです。そしてそのころ4~5けんあったという牧場ぼくじょうはなくなって、築山つきやま牧場ぼくじょうから福井、平和を見ても、たくちばかりが目につきます。私たちは、西野がすごいいきおいでかわっているなあ、と思いました。

西野神社

〒063-0021
札幌市西区平和1条3丁目
TEL:011-661-8880
FAX:011-665-8698
Mail:mail@nishinojinja.or.jp