郷土の歴史

古老の話 --- 開拓かいたくの頃を語る(座談会) ---
出席者 天田 勝治
小畑 藤五郎
広部 市太郎
山崎 友彦
佐々木総次郎
渡辺 吉栄
玉田 直治
司会 近藤 清市


● 移住した頃

司会 本日はごたぼうのところ、多数お集まり下しましありがとうございました。つきましては、この度町内会におきまして沿革誌えんかくしを編さんすることとなり、昔をしのんでの今日のざだんかいも、それにのせて永く留めたいと思います。
まずみなさま方の生まれたところ、移住された時のお年、どこからなど(当地でお生まれの方はお父さん、お祖父さん方からお聞きになって居られること)をおうかがいいたします。
宮下 私は7才の時、父に連れられて福井県ふくいけんから来ました。伏木ふしきの港から1週間の船旅を経て小樽に上陸、小樽からは汽車に乗って、それから福井に来ました。
天田 わたくしは札幌に生まれ、五才までは札幌で育ち、母に連れられて平和に来ました。その後母といっしょにに26才の時福井へ移って来ました。
小畑 私は西野24番地(今の西野第二)に生まれました。祖父は明治めいじの初期遠く但馬(今の兵庫県)の国より北海道に来て、そのご父の代をへて、大正5年福井に来ました。
広部 私は、はじめて福井に入植にゅうしょくした広部藤太郎の孫(第3代目)で、父が20才の時福井に移り、その後わたくしが生まれました。祖父の最初のころは、篠路に居ました。
山崎 私も初代しょだい入植にゅうしょくの山崎喜八郎の孫に当たり、ここで生まれ、ここに育ちました。祖父は明治めいじ20年にここに来たと聞いています。
佐々木 私は17才の時に父と共に左股(福井)へ来ました。ですから今は2代目です。
渡辺 私の家は、明治めいじ36年石川県から父の代に現在地に入植にゅうしょくしました。
玉田 私の祖父は、明治めいじ8年宮城県みやぎけんから、屯田兵として北海道(琴似ことに)へ移ってきました。私が25才の時琴似ことにから福井に移ってきました。

● 仕事のようす

司会 移住されてからの苦労はなみたいていではなかったことと想像いたしますが、移住してから先ず手始めの仕事について聞かせて下さい。
宮下 福井に入ってからの先ず先ずの仕事は、原始林をきりひらく開こんでしたが、ばっさいした原木で、差し当たって炭焼きを初めました。(当時の炭焼かまのあとは今もいたるところに見られます)続いて山に入り造材(年中ほとんどど)にねっちゅうしました。
宮下 またそのころ、野生の桑が多かったためと、まゆがよく売れる(札幌農村館)ので、副業としてかいこを飼いました。何分けいざいじょうのこともあり、養蚕ようさんも熱心で、家の中はかいこで一ぱい、人の居るところもないくらいでした。  
佐々木 ようさんが下火になると、次は除虫菊じょちゅうぎく(昭和6〜7年ごろ)栽培がさかんになりましたが、これも10年間位で終わりました。(除虫菊じょちゅうぎくは和寒より入ったのが始まりです)

山崎 佐々木
それから堆肥たいひ増産や作物増産のための肥料作りにと、酪農らくのうにも意を用いるようになり、各戸必ず2〜3頭の牛を飼いました。もちろんさくにゅうははんばい、またこうし育成の道もありらくのうも一時はさかんでした。
佐々木 広部さんは十頭以上も飼っていました。
宮下 移住したころ、開こんしながら炭焼き、造材などほねを折りましたが、同時に水田(米つくり)の農業にはかくべつみんなでがんばりました。中でも水田つくりのための用水路にはほねが折れました。(明治めいじ30年)水田面積が増えたため、明治めいじ42年には第2用水路を設置しましたが、その資金ちょうたつにはかくべつ苦労しました。(反別割と水利権で)
渡辺 昭和に入ってから、畑作物の中、野菜つくりのことはわすれられません。野菜は当時、札幌市の消費じゅように応じられるだけの生産量があり、とりわけ朝市でのしゅうにゅうは大したものでした。私は早くに自動車のめんきょをとり、昭和29年にはみなさんに先がけて自動車をこうにゅうし、野菜のうんぱんにずいぶん使いました。とにかく当時手稲、琴似ことに方面で野菜は福井が一番でした。 入植当時の家づくり
入植にゅうしょく当時の家づくり

● 大きな災害

司会 開こんにはほねが折れ、その上農作業には天候がつきものですが、きょうさくや災害はありませんでしたか。
渡辺 大正2年の冷害と水害にはほとほとこまりました。何しろこの年、水田から米のしゅうかくが出来たのは、東さんと和田さん、それと私の家と三戸のみでした。他は種もみさえじゅうぶんにとれませんでしたから。
広部 昭和に入ってからも、昭和34年大水害があり、左股橋がりゅうしつ、折から選挙当日でもあり選挙が終わって投票箱を運ぶことが出来ず、一時小畑さんたくに預け夜に入って消防のはしごにより、川をわたり、ようやく運ぶことが出来たのです。

● 生活のようす

司会 かいたくのころはすべてにこんなん、中でも衣類、食物、住居などに不自由、不足勝ちの多い生活と聞きましたが、毎日の日用品ちょうたつはどうなさって居られましたか。
宮下 明治めいじ32年に広部藤太郎さんのところに店があり(店と言っても酒、タバコ、かし、のみ)そこで買い物をしました。そのほかちょっとした買い物になると、札幌の方へ出 かけました。後に手稲東には佐藤商店と久守商店、又二股には大内商店が開店したので、わりあい便利になったのですが。
佐々木 昔は日用品と言っても、みそ、しょう油などはほとんどどが自給だったから、買う必要はなかったのだす。(衣、食、住については本文にゆずります)

● 当時の医療

司会 病気などの時はどうでしたか。
広部 小畑 当時は医療きかんとて無く、すべて重い病人は戸板にのせて琴似ことにの亀田医院か、廻医院に運びましたが、人手による労力は大変なものでした。
宮下 またお産などの時は、多くは自分でしょちしましだが、助産の経験者もおり、お願いしていました。
小畑 一度不幸のあった時は、馬そりなどで西野墓地(東中学校のところ)まで運び、かそうにしましたが、かそうじょうが不完全だったので、まきや木炭を使い苦労しました。特に冬にはこんなんしたものでした。
宮下 このこんなんは、西野墓地にかそうじょうが出来るまで続きました。
玉田 医療機関はもちろん薬局とても、当時は無く、各家庭に備え付けの売薬(主として越中えっちゅう)も大いに利用されていました。

● そのたの思い出

司会 最後に「これは」と思われる思い出がありましたら。
宮下 住む人は少なかったが、広部さんの所に、ちゃんとポストがあり手紙を出すことが でき、琴似ことに局よりゆうびんはもちろん電報も配達してくれ、この方面はとても便利でした。
広部 佐々木 子どもの遊びとして竹馬、こままわしなどがあり、とても楽しかったものです。また、開拓かいたく地蔵尊じぞうそんのまつりには青年会などで余興に浪曲ろうきょく、映画などをよんでくれてうれしかったです。また進んでえいがを見に琴似ことにの方へ出かける者もありました。
山崎 ごらくと言えば、青年のカルタ会もわすれることが出来ません。
佐々木 青年と言えば当時ずいぶんほうし活動もやりましたが、今の会館の所にグランドを作り、陸上競技などをやり、大いに楽しんだものでした。また、当時クラブが悪くなっていたので、そのクラブを建てるために、共同作業を熱心にやり、毎月定額の積み立てをしたものです。
宮下 クラブはその後青年のおかげで、昭和9年琴似ことに屯田兵の官舎をはらいさげで建てました。
小畑  とにかく、そのころの青年活動は実におうせいで、どこに行っても左青年会のめいせいはあがるばかり、まさに左股青年謳歌の時代でした。(活動のしょうさいについては本文にゆずります)
天田 今日は、あたかもかいたく記念の日であったが、どうか開拓かいたく地蔵尊じぞうそんをいついつまでも大切に、住民が心を一つにして、これからの町づくりにはげんでもらいたいと思います。
小畑 あわせて牛馬の霊をまつる牛馬観音の碑祭りも。
小畑 福井地区は琴似ことに学田によりはってんしたのであるから、学田のことをわすれることのないように。琴似ことに学田(琴似ことに屯田兵の土地)は、明治めいじ35年学田として小作農に移され、後、戦後 学田の解放されるまで大切な生産用地でした。
小畑 また福井地区に移住のみなさんは移住の初めから、とりわけしんこう心が厚く仏をまつり、これによりいっちだんけつして何事も平和えんまんに事を進めたものです。さきに建てたクラブ(昭和9年)もその講堂をかね、講堂には「おふみ」(御文章明治めいじ38年2月本山より下付)をおさめ、毎月7日の2回は、一同さんぱいの日とし各戸がもれなくさんぱい(現在は7日のみ)することとなっていたのです。(お講は今も続けられています)
宮下 講堂のない時は(明治めいじ27年より)住民一同が各戸をこうごにじゅんかいして阿弥陀如来あみだにょらいを祭り、講をあげて報恩感謝ほうおんかんしゃの意を表していました。
司会 長時間にわたりきちょうなたいけんだんや思い出話を聞かせていただき、ありがとうございました。これで今日のざだんかいをとじることにいたします。

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