明治19年(1886年)伊藤太治兵衛、佐々木善兵衛が最初にこの福井に入りました。 つづいて明治30年までの間に、13戸の人たちが入植しました。この人たちのほとんどは、福井県丹生郡というところからきています。福井県のひとたちが、ここを開いたといってもいいでしょう。ですからこの地名が、福井とよばれているのもわかりますね。この人たちは、先に北海道にわたった知人や親せきの人をたよってわたり、1〜2年の間札幌や小樽の町・札幌の周りの開拓地ですごしてから、ここへはいってきたようです。
福井は炭焼き中心の開こんがおこなわれました。
自分の土地の木を切り、なくなったら、また、奥地へはいり、炭を焼きながら開こんしていくという方法で福井は開けていきました。
福井で炭やきがさかんになったのは、近くに原料となる木が多数く生えていたことと、札幌や小樽といった大きな町がすぐちかくにあり、暖房や煮炊きなどにつかわれていたからなのです。
また、明治34年よりしぜんの桑の葉をかつようして、すべての家で、蚕を飼っていました。あとになって、役所のしどうで、桑畑もつくられ、いちじは、人のいる場所もないくらい、蚕棚をつくって、この地区の大切なしごとになったこともありましたが、5〜6年でおわりました。
明治30年ころには炭やきをしながら畑をつくり、すこしづつ開けてきました。
しかし、開こんしたとちからできる農作物の量は少なかったのです。そのころ、となりの西野や平和では、米作りが成功しさかんに作られるようになってきました。人々はなんとか収入をふやしたい、米が食べたいという願いから、福井地区でも米作りを始めるようになりました。入植後10年たって炭焼き中心の開こんから、稲作中心の時代へとかわっていったのです。
古老の話:開拓の頃を語る(座談会)
古老の話:私の遠い思い出(特別寄稿)
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琴似学田入植者 |
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