西野・右股・左股は砂まじりの粘土質で新しい田から年月がたち、土地がなれてくると、水もちがよくなり、つやのよい、良質の白い米ができました。
そこで西野・福井の米作りがさかんになるにつれて、ここでとれる米は「西野米」として有名になっていきました。それは、道内でもっともおいしい米とされていました。なかでも西野左股米は、土井弥一郎が、博らん会に出品し、一等に入選したのをきっかけに、一やく有名になりました。西野米は、他の米の味付け米とされたり、寿司米として、もてはやされました。
農作物のできだかは、天候に大きく左右されるものですが、大正2年(1913年)の冷害は、ひどいものでした。そのころ、だいたい10アールあたり240キログラムの米がとれたのですが、この年は、2戸の農家が、たねもみを取ることができたていどで、他は、全めつじょうたいとなりました。また、左股橋がながされるほどの大水害にあうこともありました。
米を作る農民は、天候にくわえて、米の相場を動かす商人にもなかされました。作った米はすべて自由米だったので、米のねだんは、その日の相場に左右されました。米穀問屋に買いたたかれ、大正から昭和にかけて、豊作貧乏と凶作貧乏のくりかえしだったそうです。
こうして、水田農家にとって「母なる川」であった発寒川のめぐみを受けて、米作りは昭和30年代半ばまでさかんにつづいていました。
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今ではただ1軒となった田んぼと畑(平和) |
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もみすり水車の音が聞こえる (西野米・用水路・水車)
1ページ目(水車)
2ページ目(造田)
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